手《て》を觸《ふ》れなかつたのは、濡《ぬ》れるのを厭《いと》つたのでない、波《なみ》を恐《おそ》れたのでない。圓山川《まるやまがは》の膚《はだ》に觸《ふ》れるのを憚《はゞか》つたのであつた。
城崎《きのさき》は――今《いま》も恁《かく》の如《ごと》く目《め》に泛《うか》ぶ。
こゝに希有《けう》な事《こと》があつた。宿《やど》にかへりがけに、客《きやく》を乘《の》せた俥《くるま》を見《み》ると、二臺三臺《にだいさんだい》、俥夫《くるまや》が揃《そろ》つて手《て》に手《て》に鐵棒《かなぼう》を一條《ひとすぢ》づゝ提《さ》げて、片手《かたて》で楫《かぢ》を壓《お》すのであつた。――煙草《たばこ》を買《か》ひながら聞《き》くと、土地《とち》に數《かず》の多《おほ》い犬《いぬ》が、俥《くるま》に吠附《ほえつ》き戲《ざ》れかゝるのを追拂《おひはら》ふためださうである。駄菓子屋《だぐわしや》の縁臺《えんだい》にも、船宿《ふなやど》の軒下《のきした》にも、蒲燒屋《かばやきや》の土間《どま》にも成程《なるほど》居《ゐ》たが。――言《い》ふうちに、飛《とび》かゝつて、三疋四疋《さんびきしひき》、就中《なかんづく》先頭《せんとう》に立《た》つたのには、停車場《ていしやば》近《ぢか》く成《な》ると、五疋《ごひき》ばかり、前後《ぜんご》から飛《と》びかゝつた。叱《しつ》、叱《しつ》、叱《しつ》! 畜生《ちくしやう》、畜生《ちくしやう》、畜生《ちくしやう》。俥夫《くるまや》が鐵棒《かなぼう》を振舞《ふりまは》すのを、橋《はし》に立《た》つて見《み》たのである。
其《そ》の犬《いぬ》どもの、耳《みゝ》には火《ひ》を立《た》て、牙《きば》には火《ひ》を齒《は》み、焔《ほのほ》を吹《ふ》き、黒煙《くろけむり》を尾《を》に倦《ま》いて、車《くるま》とも言《い》はず、人《ひと》とも言《い》はず、炎《ほのほ》に搦《から》んで、躍上《をどりあが》り、飛蒐《とびかゝ》り、狂立《くるひた》つて地獄《ぢごく》の形相《ぎやうさう》を顯《あらは》したであらう、と思《おも》はず身《み》の毛《け》を慄立《よだ》てたのは、昨《さく》、十四年《じふよねん》五月《ごぐわつ》二十三日《にじふさんにち》十一時《じふいちじ》十分《じつぷん》、城崎《きのさき》豐岡《とよをか》大地震《おほぢしん》大火《たいくわ》の號外《がうぐわい》を見《み》ると同時《どうじ》であつた。
地方《ちはう》は風物《ふうぶつ》に變化《へんくわ》が少《すくな》い。わけて唯《たゞ》一年《いちねん》、もの凄《すご》いやうに思《おも》ふのは、月《つき》は同《おな》じ月《つき》、日《ひ》はたゞ前後《ぜんご》して、――谿川《たにがは》に倒《たふ》れかゝつたのも殆《ほとん》ど同《おな》じ時刻《じこく》である。娘《むすめ》も其處《そこ》に按摩《あんま》も彼處《かしこ》に――
其《そ》の大地震《おほぢしん》を、あの時《とき》既《すで》に、不氣味《ぶきみ》に按摩《あんま》は豫覺《よかく》したるにあらざるか。然《しか》らば八千八聲《はつせんやこゑ》を泣《な》きつゝも、生命《せいめい》だけは助《たす》かつたらう。衣《きぬ》を洗《あら》ひし娘《むすめ》も、水《みづ》に肌《はだ》は焦《こが》すまい。
當時《たうじ》寫眞《しやしん》を見《み》た――湯《ゆ》の都《みやこ》は、たゞ泥《どろ》と瓦《かはら》の丘《をか》となつて、なきがらの如《ごと》き山《やま》あるのみ。谿川《たにがは》の流《ながれ》は、大《おほ》むかでの爛《たゞ》れたやうに……其《そ》の寫眞《しやしん》も赤《あか》く濁《にご》る……砂煙《すなけむり》の曠野《くわうや》を這《は》つて居《ゐ》た。
木《き》も草《くさ》も、あはれ、廢屋《はいをく》の跡《あと》の一輪《いちりん》の紫《むらさき》の菖蒲《あやめ》もあらば、それがどんなに、と思《おも》ふ。
――今《いま》は、柳《やなぎ》も芽《めぐ》んだであらう――城崎《きのさき》よ。
[#地より5字上げ]大正十五年四月
底本:「鏡花全集 巻二十七」岩波書店
1942(昭和17)年10月20日第1刷発行
1988(昭和63)年11月2日第3刷発行
※題名の下にあった年代の注を、最後に移しました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:門田裕志
校正:米田進
2002年5月8日作成
2003年5月18日修正
青空文庫作成ファイル:
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