女客
泉鏡花
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)階子段《はしごだん》から
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)瞳|清《すず》しゅう
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》り、
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一
「謹さん、お手紙、」
と階子段《はしごだん》から声を掛けて、二階の六畳へ上《あが》り切らず、欄干《てすり》に白やかな手をかけて、顔を斜《ななめ》に覗《のぞ》きながら、背後向《うしろむ》きに机に寄った当家の主人《あるじ》に、一枚を齎《もた》らした。
「憚《はばか》り、」
と身を横に、蔽《おお》うた燈《ともしび》を離れたので、玉《ぎょく》ぼやを透かした薄あかりに、くっきり描き出《いだ》された、上り口の半身は、雲の絶間の青柳《あおやぎ》見るよう、髪も容《かたち》もすっきりした中年増《ちゅうどしま》。
これはあるじの国許《くにもと》から、五ツになる男の児《こ》を伴うて、この度上京、しばらくここに逗留《とうりゅう》している、お民といって縁続き、一蒔絵師《あるまきえし》の女房である。
階下《した》で添乳《そえぢ》をしていたらしい、色はくすんだが艶《つや》のある、藍《あい》と紺、縦縞《たてじま》の南部の袷《あわせ》、黒繻子《くろじゅす》の襟のなり、ふっくりとした乳房の線、幅細く寛《くつろ》いで、昼夜帯の暗いのに、緩く纏《まと》うた、縮緬《ちりめん》の扱帯《しごき》に蒼味《あおみ》のかかったは、月の影のさしたよう。
燈火《ともしび》に対して、瞳|清《すず》しゅう、鼻筋がすっと通り、口許《くちもと》の緊《しま》った、痩《や》せぎすな、眉のきりりとした風采《とりなり》に、しどけない態度《なり》も目に立たず、繕わぬのが美しい。
「これは憚り、お使い柄|恐入《おそれい》ります。」
と主人は此方《こなた》に手を伸ばすと、見得もなく、婦人《おんな》は胸を、はらんばいになるまでに、ずッと出して差置くのを、畳をずらして受取って、火鉢の上でちょっと見たが、端書《はがき》の用は直ぐに済んだ。
机の上に差置いて、
「ほんとに御苦労様でした。」
「はいはい、これはまあ、御丁寧な、御挨拶《ごあいさつ》痛み入りますこと。お勝手からこちらまで、随分遠方でござんすからねえ。」
「憚り様ね。」
「ちっとも憚り様なことはありやしません。謹さん、」
「何ね、」
「貴下《あなた》、その(憚り様ね)を、端書を読む、つなぎに言ってるのね。ほほほほ。」
謹さんも莞爾《にっこり》して、
「お話しなさい。」
「難有《ありがと》う、」
「さあ、こちらへ。」
「はい、誠にどうも難有う存じます、いいえ、どうぞもう、どうぞ、もう。」
「早速だ、おやおや。」
「大分丁寧でございましょう。」
「そんな皮肉を言わないで、坊やは?」
「寝ました。」
「母は?」
「行火《あんか》で、」と云って、肱《ひじ》を曲げた、雪なす二の腕、担いだように寝て見せる。
「貴女《あなた》にあまえているんでしょう。どうして、元気な人ですからね、今時行火をしたり、宵の内から転寝《うたたね》をするような人じゃないの。鉄は居ませんか。」
「女中さんは買物に、お汁《みおつけ》の実を仕入れるのですって。それから私がお道楽、翌日《あした》は田舎料理を達引《たてひ》こうと思って、ついでにその分も。」
「じゃ階下《した》は寂《さみ》しいや、お話しなさい。」
お民はそのまま、すらりと敷居へ、後手を弱腰に、引っかけの端をぎゅうと撫《な》で、軽《かろ》く衣紋《えもん》を合わせながら、後姿の襟清く、振返って入ったあと、欄干《てすり》の前なる障子を閉めた。
「ここが開《あ》いていちゃ寒いでしょう。」
「何だかぞくぞくするようね、悪い陽気だ。」
と火鉢を前へ。
「開《あけ》ッ放しておくからさ。」
「でもお民さん、貴女が居るのに、そこを閉めておくのは気になります。」
時に燈に近う来た。瞼《まぶた》に颯《さっ》と薄紅《うすくれない》。
二
坐《すわ》ると炭取を引寄せて、火箸《ひばし》を取って俯向《うつむ》いたが、
「お礼に継いで上げましょうね。」
「どうぞ、願います。」
「まあ、人様のもので、義理をするんだよ、こんな呑気《のんき》ッちゃありやしない。串戯《じょうだん》はよして、謹さん、東京《こっち》は炭が高いんですってね。」
主人《あるじ》は大胡座《おおあぐら》で、落着澄まし、
「吝《けち》なことをお言いなさんな、お民さん、阿母《おふくろ》は行火《あんか》だというのに、押入には葛籠《つづら》へ入って、まだ蚊帳《かや》があるという騒ぎだ。」
「何のそれが騒ぎなことがあるもんですか。またいつかのように、夏中蚊帳が無くっては、それこそお家は騒動ですよ。」
「騒動どころか没落だ。いや、弱りましたぜ、一夏は。
何しろ、家の焼けた年でしょう。あの焼あとというものは、どういうわけだか、恐しく蚊が酷《ひど》い。まだその騒ぎの無い内、当地《こちら》で、本郷のね、春木町の裏長屋を借りて、夥間《なかま》と自炊をしたことがありましたっけが、その時も前の年火事があったといって、何年にもない、大変な蚊でしたよ。けれども、それは何、少《わか》いもの同志だから、萌黄縅《もえぎおどし》の鎧《よろい》はなくても、夜一夜《よっぴて》、戸外《おもて》を歩行《ある》いていたって、それで事は済みました。
内じゃ、年よりを抱えていましょう。夜が明けても、的《あて》はないのに、夜中一時二時までも、友達の許《とこ》へ、苦《くるし》い時の相談の手紙なんか書きながら、わきで寝返りなさるから、阿母《おっか》さん、蚊が居ますかって聞くんです。
自分の手にゃ五ツ六ツたかっているのに。」
主人《あるじ》は火鉢にかざしながら、
「居ますかもないもんだ。
ああ、ちっと居るようだの、と何でもないように、言われるんだけれども、なぜ阿母《おふくろ》には居るだろうと、口惜《くやし》いくらいでね。今に工面してやるから可《い》い、蚊の畜生覚えていろと、無念骨髄《むねんこつずい》でしたよ。まだそれよりか、毒虫のぶんぶん矢を射るような烈《はげし》い中に、疲れて、すやすや、……傍《わき》に私の居るのを嬉しそうに、快よさそうに眠られる時は、なお堪《たま》らなくって泣きました。」
聞く方が歎息して、
「だってねえ、よくそれで無事でしたね。」
顔見られたのが不思議なほどの、懐かしそうな言《ことば》であった。
「まさか、蚊に喰殺されたという話もない。そんな事より、恐るべきは兵糧《ひょうろう》でしたな。」
「そうだってねえ。今じゃ笑いばなしになったけれど。」
「余りそうでもありません。しかしまあ、お庇様《かげさま》、どうにか蚊帳もありますから。」
「ほんとに、どんなに辛かったろう、謹さん、貴下《あなた》。」と優しい顔。
「何、私より阿母ですよ。」
「伯母さんにも聞きました。伯母さんはまた自分の身がかせになって、貴下が肩が抜けないし、そうかといって、修行中で、どう工面の成ろうわけはないのに、一ツ売り二つ売り、一日だてに、段々煙は細くなるし、もう二人が消えるばかりだから、世間体さえ構わないなら、身体《からだ》一ツないものにして、貴下を自由にしてあげたい、としょっちゅうそう思っていらしったってね。お互に今聞いても、身ぶるいが出るじゃありませんか。」
と顔を上げて目を合わせる、両人の手は左右から、思わず火鉢を圧《おさ》えたのである。
「私はまた私で、何です、なまじ薄髯《うすひげ》の生えた意気地のない兄哥《あにい》がついているから起って、相応にどうにか遣繰《やりく》って行《ゆ》かれるだろう、と思うから、食物《くいもの》の足りぬ阿母を、世間でも黙って見ている。いっそ伜《せがれ》がないものと極《きま》ったら、たよる処も何にもない。六十を越した人を、まさか見殺しにはしないだろう。
やっちまおうかと、日に幾度《いくたび》考えたかね。
民さんも知っていましょう、あの年は、城の濠《ほり》で、大層|投身者《みなげ》がありました。」
同一年《おないどし》の、あいやけは、姉さんのような頷《うなず》き方。
「ああ。」
三
「確か六七人もあったでしょう。」
お民は聞いて、火鉢のふちに、算盤《そろばん》を弾《はじ》くように、指を反らして、
「謹さん、もっとですよ。八月十日の新聞までに、八人だったわ。」
と仰いで目を細うして言った。幼い時から、記憶の鋭い婦人である。
「じゃ、九人になる処だった。貴女《あなた》の内へ遊びに行《ゆ》くと、いつも帰りが遅くなって、日が暮れちゃ、あの濠端《ほりばた》を通ったんですがね、石垣が蒼《あお》く光って、真黒《まっくろ》な水の上から、むらむらと白い煙が、こっちに這《は》いかかって来るように見えるじゃありませんか。
引込まれては大変だと、早足に歩行《ある》き出すと、何だかうしろから追い駈《か》けるようだから、一心に遁《に》げ出してさ、坂の上で振返ると、凄《すご》いような月で。
ああ、春の末でした。
あとについて来たものは、自分の影法師ばかりなんです。
自分の影を、死神と間違えるんだもの、御覧なさい、生きている瀬はなかったんですよ。」
「心細いじゃありませんか、ねえ。」
と寂《さみ》しそうに打傾く、面《おもて》に映って、頸《うなじ》をかけ、黒繻子《くろじゅす》の襟に障子の影、薄ら蒼く見えるまで、戸外《おもて》は月の冴《さ》えたる気勢《けはい》。カラカラと小刻《こきざみ》に、女の通る下駄の音、屋敷町に響いたが、女中はまだ帰って来ない。
「心細いのが通り越して、気が変になっていたんです。
じゃ、そんな、気味の悪い、物凄い、死神のさそうような、厭《いや》な濠端を、何の、お民さん。通らずともの事だけれど、なぜかまた、わざとにも、そこを歩行《ある》いて、行過《ゆきす》ぎてしまってから、まだ死なないでいるって事を、自分で確《たしか》めて見たくてならんのでしたよ。
危険千万《けんのんせんばん》。
だって、今だから話すんだけれど、その蚊帳《かや》なしで、蚊が居るッていう始末でしょう。無いものは活計《たつき》の代《しろ》という訳で。
内で熟《じっ》としていたんじゃ、たとい曳《ひ》くにしろ、車も曳けない理窟ですから、何がなし、戸外《おもて》へ出て、足駄|穿《ば》きで駈け歩行《ある》くしだらだけれど、さて出ようとすると、気になるから、上《あが》り框《がまち》へ腰をかけて、片足履物をぶら下げながら、母《おっか》さん、お米は? ッて聞くんです。」
「お米は? ッてね、謹さん。」
と、お民はほろりとしたのである。あるじはあえて莞爾《にこ》やかに、
「恐しいもんだ、その癖両に何升どこは、この節かえって覚えました。その頃は、まったくです、無い事は無いにしろ、幾許《いくら》するか知らなかった。
皆《みんな》、親のお庇《かげ》だね。
その阿母《おふくろ》が、そうやって、お米は? ッて尋ねると、晩まであるよ、とお言いなさる。
翌日《あす》のが無いと言われるより、どんなに辛かったか知れません。お民さん。」
と呼びかけて、もとより答を待つにあらず。
「もう、その度にね、私はね、腰かけた足も、足駄の上で、何だって、こう脊が高いだろう、と土間へ、へたへたと坐《すわ》りたかった。」
「まあ、貴下《あなた》、大抵じゃなかったのねえ。」
フトその時、火鉢のふちで指が触れた。右の腕《かいな》はつけ元まで、二人は、はっと熱かったが、思わず言い合わせたかのごとく、鉄瓶に当って見た。左の手は、ひやりとした。
「謹さん、沸《わか》しましょうかね。」と軽《かろ》くいう。
「すっかり忘れていた、お庇さまで火もよく起ったのに。」
「お湯があるかしら。」
と引っ立てて、蓋《ふた》を取って、燈《あ
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