かり》の方に傾けながら、
「貴下。ちょいと、その水差しを。お道具は揃ったけれど、何だかこの二階の工合が下宿のようじゃありませんか。」
四
「それでもね、」
とあるじは若々しいものいいで、
「お民さんが来てから、何となく勝手が違って、ちょっと他所《よそ》から帰って来ても、何だか自分の内のようじゃないんですよ。」
「あら、」
とて清《すず》しい目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》り、鉄瓶の下に両手を揃えて、真直《まっすぐ》に当りながら、
「そんな事を言うもんじゃありません。外へといっては、それこそ田舎の芝居一つ、めったに見に出た事もないのに、はるばる一人旅で逢《あ》いに来たんじゃありませんか、酷《ひど》いよ、謹さんは。」
と美しく打怨《うちえん》ずる。
「飛んだ事を、ははは。」
とあるじも火に翳《かざ》して、
「そんな気でいった、内らしくないではない、その下宿屋らしくないと言ったんですよ。」
「ですからね、早くおもらいなさいまし、悪いことはいいません。どんなに気がついても、しんせつでも、女中じゃ推切《おしき》って、何かすることが出来ませんからね、どうしても手が届かないがちになるんです。伯母さんも、もう今じゃ、蚊帳よりお嫁が欲《ほし》いんですよ。」
あるじは、屹《きっ》と頭《かぶり》を掉《ふ》った。
「いいえ、よします。」
「なぜですね、謹さん。」と見上げた目に、あえて疑《うたがい》の色はなく、別に心あって映ったのであった。
「なぜというと議論になります。ただね、私は欲くないんです。
こういえば、理窟もつけよう、またどうこうというけれどね、年よりのためにも他人の交《まじ》らない方が気楽で可《い》いかも知れません。お民さん、貴女《あなた》がこうやって遊びに来てくれたって、知らない婦人《おんな》が居ようより、阿母《おふくろ》と私ばかりの方が、御馳走《ごちそう》は届かないにした処で、水入らずで、気が置けなくって可いじゃありませんか。」
「だって、謹さん、私がこうして居いいために、一生|貴方《あなた》、奥さんを持たないでいられますか。それも、五年と十年と、このままで居たいたって、こちらに居られます身体《からだ》じゃなし、もう二週間の上になったって、五日目ぐらいから、やいやい帰れって、言って来て、三度めに来た手紙なんぞの様子じゃ、良人《やど》の方の親類が、ああの、こうのって、面倒だから、それにつけても早々帰れじゃありませんか。また貴下《あなた》を置いて、他《ほか》に私の身についた縁者といってはないんですからね。どうせ帰れば近所近辺、一門一類が寄って集《たか》って、」
と婀娜《あだ》に唇の端を上げると、顰《ひそ》めた眉を掠《かす》めて落ちた、鬢《びん》の毛を、焦《じれ》ったそうに、背《うしろ》へ投げて掻上《かきあ》げつつ、
「この髪を※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]《むし》りたくなるような思いをさせられるに極《きま》ってるけれど、東京へ来たら、生意気らしい、気の大きくなった上、二寸切られるつもりになって、度胸を極《き》めて、伯母さんには内証《ないしょ》ですがね、これでも自分で呆《あき》れるほど、了簡《りょうけん》が据《すわ》っていますけれど、だってそうは御厄介になっても居られませんもの。」
「いつまでも居て下さいよ。もう、私は、女房なんぞ持とうより、貴女に遊んでいてもらう方が、どんなに可《い》いから知れやしない。」
と我儘《わがまま》らしく熱心に言った。
お民は言《ことば》を途切らしつ、鉄瓶はやや音《ね》に出づる。
「謹さん、」
「ええ、」
お民は唾《つ》をのみ、
「ほんとうですか。」
「ほんとうですとも、まったくですよ。」
「ほんとうに、謹さん。」
「お民さんは、嘘だと思って。」
「じゃもういっそ。」
と烈《はげ》しく火箸《ひばし》を灰について、
「帰らないでおきましょうか。」
五
我を忘れてお民は一気に、思い切っていいかけた、言《ことば》の下に、あわれ水ならぬ灰にさえ、かず書くよりも果敢《はかな》げに、しょんぼり肩を落したが、急に寂《さみ》しい笑顔を上げた。
「ほほほほほ、その気で沢山《たんと》御馳走をして下さいまし。お茶ばかりじゃ私は厭《いや》。」
といううち涙さしぐみぬ。
「謹さん、」
というも曇り声に、
「も、貴下《あなた》、どうして、そんなに、優《やさし》くいって下さるんですよ。こうした私じゃありませんか。」
「貴女《あなた》でなくッて、お民さん、貴女は大恩人なんだもの。」
「ええ? 恩人ですって、私が。」
「貴女が、」
「まあ! 誰方《どなた》のねえ?」
「私のですとも。」
「どうして、謹さん、私はこんなぞんざいだし、もう十七の年に、何にも知らないで児持《こもち》になったんですもの。碌《ろく》に小袖《こそで》一つ仕立って上げた事はなく、貴下が一生の大切《だいじ》だった、そのお米のなかった時も、煙草《たばこ》も買ってあげないでさ。
後で聞いて口惜《くやし》くって、今でも怨《うら》んでいるけれど、内証の苦しい事ったら、ちっとも伯母さんは聞かして下さらないし、あなたの御容子《ごようす》でも分りそうなものだったのに、私が気がつかないからでしょうけれど、いつお目にかかっても、元気よく、いきいきしてねえ、まったくですよ、今なんぞより、窶《やつ》れてないで、もっと顔色も可《よ》かったもの……」
「それです、それですよ、お民さん。その顔色の可かったのも、元気よく活々《いきいき》していたのだって、貴女、貴女の傍《そば》に居る時の他《ほか》に、そうした事を見た事はありますまい。
私はもう、影法師が死神に見えた時でも、貴女に逢えば、元気が出て、心が活々したんです。それだから貴女はついぞ、ふさいだ、陰気な、私の屈託顔を見た事はないんです。
ねえ。
先刻《さっき》もいう通り、私の死んでしまった方が阿母《おふくろ》のために都合よく、人が世話をしようと思ったほどで、またそれに違いはなかったんですもの。
実際私は、貴女のために活《い》きていたんだ。
そして、お民さん。」
あるじが落着いて静《しずか》にいうのを、お民は激しく聞くのであろう、潔白なるその顔《かんばせ》に、湧上《わきのぼ》るごとき血汐《ちしお》の色。
「切迫詰《せっぱつま》って、いざ、と首の座に押直る時には、たとい場処《ところ》が離れていても、きっと貴女の姿が来て、私を助けてくれるッて事を、堅くね、心の底に、確《たしか》に信仰していたんだね。
まあ、お民さん許《とこ》で夜更《よふか》しして、じゃ、おやすみってお宅を出る。遅い時は寝衣《ねまき》のなりで、寒いのも厭《いと》わないで、貴女が自分で送って下さる。
門《かど》を出ると、あの曲角あたりまで、貴女、その寝衣のままで、暗《やみ》の中まで見送ってくれたでしょう。小児《こども》が奥で泣いている時でも、雨が降っている時でも、ずッと背中まで外へ出して。
私はまた、曲り角で、きっと、密《そっ》と立停《たちど》まって、しばらく経《た》って、カタリと枢《くるる》のおりるのを聞いたんです。
その、帰り途《みち》に、濠端《ほりばた》を通るんです。枢は下りて、貴女の寝た事は知りながら、今にも濠へ、飛込もうとして、この片足が崖《がけ》をはずれる、背後《うしろ》でしっかりと引き留めて、何をするの、謹さん、と貴女がきっというと確《たしか》に思った。
ですから、死のうと思い、助かりたい、と考えながら、そんな、厭《いや》な、恐ろしい濠端を通ったのも、枢をおろして寝なすった、貴女が必ず助けてくれると、それを力にしたんです。お庇《かげ》で活きていたんですもの、恩人でなくッてさ、貴女は命の親なんですよ。」
とただ懐かしげに嬉しそうにいう顔を、じっと見る見る、ものをもいわず、お民ははらはらと、薄曇る燈《ともしび》の前に落涙した。
「お民さん、」
「謹さん、」
とばかり歯をカチリと、堰《せ》きあえぬ涙を噛《か》み留めつつ、
「口についていうようでおかしいんですが、私もやっぱり。貴下は、もう、今じゃこんなにおなりですから、私は要らなくなったでしょうが、私は今も、今だって、その時分から、何ですよ、同《おんな》じなんです、謹さん。慾《よく》にも、我慢にも、厭で厭で、厭で厭で死にたくなる時がありますとね、そうすると、貴下が来て、お留めなさると思ってね、それを便りにしていますよ。
まあ、同じようで不思議だから、これから別れて帰りましたら、私もまた、月夜にお濠端を歩行《ある》きましょう。そして貴下、謹さんのお姿が、そこへ出るのを見ましょうよ。」
と差俯向《さしうつむ》いた肩が震えた。
あるじは、思わず、火鉢なりに擦り寄って、
「飛んだ事を、串戯《じょうだん》じゃありません、そ、そ、そんな事をいって、譲《ゆずる》(小児の名)さんをどうします。」
「だって、だって、貴下がその年、その思いをしているのに、私はあの児《こ》を拵《こしら》えました。そんな、そんな児を構うものか。」
とすねたように鋭くいったが、露を湛《たた》えた花片《はなびら》を、湯気やなぶると、笑《えみ》を湛え、
「ようござんすよ。私はお濠を楽《たのし》みにしますから。でも、こんなじゃ、私の影じゃ、凄《すご》い死神なら可《い》いけれど、大方|鼬《いたち》にでも見えるでしょう。」
と投げたように、片身を畳に、褄《つま》も乱れて崩折《くずお》れた。
あるじは、ひたと寄せて、押《おさ》えるように、棄《す》てた女の手を取って、
「お民さん。」
「…………」
「国へ、国へ帰しやしないから。」
「あれ、お待ちなさい伯母さんが。」
「どうした、どうしたよ。」
という母の声、下に聞えて、わっとばかり、その譲という児が。
「煩《うるさ》いねえ!ちょいと、見て来ますからね、謹さん。」
とはらりと立って、脛《はぎ》白き、敷居際の立姿。やがてトントンと階下《した》へ下りたが、泣き留《や》まぬ譲を横抱きに、しばらくして品のいい、母親の形《なり》で座に返った。燈火の陰に胸の色、雪のごとく清らかに、譲はちゅうちゅうと乳を吸って、片手で縋《すが》って泣いじゃくる。
あるじは、きちんと坐《すわ》り直って、
「どうしたの、酷《ひど》く怯《おび》えたようだっけ。」
「夢を見たかい、坊や、どうしたのだねえ。」
と頬《ほお》に顔をかさぬれば、乳《ち》を含みつつ、愛らしい、大きな目をくるくるとやって、
「鼬が、阿母《おっか》さん。」
「ええ、」
二人は顔を見合わせた。
あるじは、居寄って顔を覗《のぞ》き、ことさらに打笑い、
「何、内へ鼬なんぞ出るものか。坊や、鼠の音を聞いたんだろう。」
小児《こども》はなお含んだまま、いたいけに捻向《ねじむ》いて、
「ううむ、内じゃないの。お濠《ほり》ン許《とこ》で、長い尻尾で、あの、目が光って、私《わたい》、私を睨《にら》んで、恐《こわ》かったの。」
と、くるりと向いて、ひったり母親のその柔かな胸に額を埋《うず》めた。
また顔を見合わせたが、今はその色も変らなかった。
「おお、そうかい、夢なんですよ。」
「恐かったな、恐かったな、坊や。」
「恐かったね。」
からからと格子が開いて、
「どうも、おそなわりました。」と勝手でいって、女中が帰る。
「さあ、御馳走だよ。」
と衝《つ》と立ったが、早急《さっきゅう》だったのと、抱いた重量《おもみ》で、裳《もすそ》を前に、よろよろと、お民は、よろけながら段階子《だんばしご》。
「謹さん。」
「…………」
「翌朝《あした》のお米は?」
と艶麗《はでやか》に莞爾《にっこり》して、
「早く、奥さんを持って下さいよ。ああ、女中さん御苦労でした。」
と下を向いて高く言った。
その時|襖《ふすま》の開く音がして、
「おそなわりました、御新造様《ごしんぞさま》。」
お民は答えず、ほと吐息。円髷《まげ》艶《つや》やかに二三段、片頬《かたほ》を見せて、
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