《やど》の方の親類が、ああの、こうのって、面倒だから、それにつけても早々帰れじゃありませんか。また貴下《あなた》を置いて、他《ほか》に私の身についた縁者といってはないんですからね。どうせ帰れば近所近辺、一門一類が寄って集《たか》って、」
 と婀娜《あだ》に唇の端を上げると、顰《ひそ》めた眉を掠《かす》めて落ちた、鬢《びん》の毛を、焦《じれ》ったそうに、背《うしろ》へ投げて掻上《かきあ》げつつ、
「この髪を※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]《むし》りたくなるような思いをさせられるに極《きま》ってるけれど、東京へ来たら、生意気らしい、気の大きくなった上、二寸切られるつもりになって、度胸を極《き》めて、伯母さんには内証《ないしょ》ですがね、これでも自分で呆《あき》れるほど、了簡《りょうけん》が据《すわ》っていますけれど、だってそうは御厄介になっても居られませんもの。」
「いつまでも居て下さいよ。もう、私は、女房なんぞ持とうより、貴女に遊んでいてもらう方が、どんなに可《い》いから知れやしない。」
 と我儘《わがまま》らしく熱心に言った。
 お民は言《ことば》を途切らしつ、鉄瓶はやや音《ね》に出づる。
「謹さん、」
「ええ、」
 お民は唾《つ》をのみ、
「ほんとうですか。」
「ほんとうですとも、まったくですよ。」
「ほんとうに、謹さん。」
「お民さんは、嘘だと思って。」
「じゃもういっそ。」
 と烈《はげ》しく火箸《ひばし》を灰について、
「帰らないでおきましょうか。」

       五

 我を忘れてお民は一気に、思い切っていいかけた、言《ことば》の下に、あわれ水ならぬ灰にさえ、かず書くよりも果敢《はかな》げに、しょんぼり肩を落したが、急に寂《さみ》しい笑顔を上げた。
「ほほほほほ、その気で沢山《たんと》御馳走をして下さいまし。お茶ばかりじゃ私は厭《いや》。」
 といううち涙さしぐみぬ。
「謹さん、」
 というも曇り声に、
「も、貴下《あなた》、どうして、そんなに、優《やさし》くいって下さるんですよ。こうした私じゃありませんか。」
「貴女《あなた》でなくッて、お民さん、貴女は大恩人なんだもの。」
「ええ? 恩人ですって、私が。」
「貴女が、」
「まあ! 誰方《どなた》のねえ?」
「私のですとも。」
「どうして、謹さん、私はこんなぞんざいだし、もう十七の年に、何にも知らないで児持《こもち》になったんですもの。碌《ろく》に小袖《こそで》一つ仕立って上げた事はなく、貴下が一生の大切《だいじ》だった、そのお米のなかった時も、煙草《たばこ》も買ってあげないでさ。
 後で聞いて口惜《くやし》くって、今でも怨《うら》んでいるけれど、内証の苦しい事ったら、ちっとも伯母さんは聞かして下さらないし、あなたの御容子《ごようす》でも分りそうなものだったのに、私が気がつかないからでしょうけれど、いつお目にかかっても、元気よく、いきいきしてねえ、まったくですよ、今なんぞより、窶《やつ》れてないで、もっと顔色も可《よ》かったもの……」
「それです、それですよ、お民さん。その顔色の可かったのも、元気よく活々《いきいき》していたのだって、貴女、貴女の傍《そば》に居る時の他《ほか》に、そうした事を見た事はありますまい。
 私はもう、影法師が死神に見えた時でも、貴女に逢えば、元気が出て、心が活々したんです。それだから貴女はついぞ、ふさいだ、陰気な、私の屈託顔を見た事はないんです。
 ねえ。
 先刻《さっき》もいう通り、私の死んでしまった方が阿母《おふくろ》のために都合よく、人が世話をしようと思ったほどで、またそれに違いはなかったんですもの。
 実際私は、貴女のために活《い》きていたんだ。
 そして、お民さん。」
 あるじが落着いて静《しずか》にいうのを、お民は激しく聞くのであろう、潔白なるその顔《かんばせ》に、湧上《わきのぼ》るごとき血汐《ちしお》の色。
「切迫詰《せっぱつま》って、いざ、と首の座に押直る時には、たとい場処《ところ》が離れていても、きっと貴女の姿が来て、私を助けてくれるッて事を、堅くね、心の底に、確《たしか》に信仰していたんだね。
 まあ、お民さん許《とこ》で夜更《よふか》しして、じゃ、おやすみってお宅を出る。遅い時は寝衣《ねまき》のなりで、寒いのも厭《いと》わないで、貴女が自分で送って下さる。
 門《かど》を出ると、あの曲角あたりまで、貴女、その寝衣のままで、暗《やみ》の中まで見送ってくれたでしょう。小児《こども》が奥で泣いている時でも、雨が降っている時でも、ずッと背中まで外へ出して。
 私はまた、曲り角で、きっと、密《そっ》と立停《たちど》まって、しばらく経《た》って、カタリと枢《くるる》のおりるのを聞いたんです。
 その、帰り途《みち》
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