るまで、戸外《おもて》は月の冴《さ》えたる気勢《けはい》。カラカラと小刻《こきざみ》に、女の通る下駄の音、屋敷町に響いたが、女中はまだ帰って来ない。
「心細いのが通り越して、気が変になっていたんです。
じゃ、そんな、気味の悪い、物凄い、死神のさそうような、厭《いや》な濠端を、何の、お民さん。通らずともの事だけれど、なぜかまた、わざとにも、そこを歩行《ある》いて、行過《ゆきす》ぎてしまってから、まだ死なないでいるって事を、自分で確《たしか》めて見たくてならんのでしたよ。
危険千万《けんのんせんばん》。
だって、今だから話すんだけれど、その蚊帳《かや》なしで、蚊が居るッていう始末でしょう。無いものは活計《たつき》の代《しろ》という訳で。
内で熟《じっ》としていたんじゃ、たとい曳《ひ》くにしろ、車も曳けない理窟ですから、何がなし、戸外《おもて》へ出て、足駄|穿《ば》きで駈け歩行《ある》くしだらだけれど、さて出ようとすると、気になるから、上《あが》り框《がまち》へ腰をかけて、片足履物をぶら下げながら、母《おっか》さん、お米は? ッて聞くんです。」
「お米は? ッてね、謹さん。」
と、お民はほろりとしたのである。あるじはあえて莞爾《にこ》やかに、
「恐しいもんだ、その癖両に何升どこは、この節かえって覚えました。その頃は、まったくです、無い事は無いにしろ、幾許《いくら》するか知らなかった。
皆《みんな》、親のお庇《かげ》だね。
その阿母《おふくろ》が、そうやって、お米は? ッて尋ねると、晩まであるよ、とお言いなさる。
翌日《あす》のが無いと言われるより、どんなに辛かったか知れません。お民さん。」
と呼びかけて、もとより答を待つにあらず。
「もう、その度にね、私はね、腰かけた足も、足駄の上で、何だって、こう脊が高いだろう、と土間へ、へたへたと坐《すわ》りたかった。」
「まあ、貴下《あなた》、大抵じゃなかったのねえ。」
フトその時、火鉢のふちで指が触れた。右の腕《かいな》はつけ元まで、二人は、はっと熱かったが、思わず言い合わせたかのごとく、鉄瓶に当って見た。左の手は、ひやりとした。
「謹さん、沸《わか》しましょうかね。」と軽《かろ》くいう。
「すっかり忘れていた、お庇さまで火もよく起ったのに。」
「お湯があるかしら。」
と引っ立てて、蓋《ふた》を取って、燈《あかり》の方に傾けながら、
「貴下。ちょいと、その水差しを。お道具は揃ったけれど、何だかこの二階の工合が下宿のようじゃありませんか。」
四
「それでもね、」
とあるじは若々しいものいいで、
「お民さんが来てから、何となく勝手が違って、ちょっと他所《よそ》から帰って来ても、何だか自分の内のようじゃないんですよ。」
「あら、」
とて清《すず》しい目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》り、鉄瓶の下に両手を揃えて、真直《まっすぐ》に当りながら、
「そんな事を言うもんじゃありません。外へといっては、それこそ田舎の芝居一つ、めったに見に出た事もないのに、はるばる一人旅で逢《あ》いに来たんじゃありませんか、酷《ひど》いよ、謹さんは。」
と美しく打怨《うちえん》ずる。
「飛んだ事を、ははは。」
とあるじも火に翳《かざ》して、
「そんな気でいった、内らしくないではない、その下宿屋らしくないと言ったんですよ。」
「ですからね、早くおもらいなさいまし、悪いことはいいません。どんなに気がついても、しんせつでも、女中じゃ推切《おしき》って、何かすることが出来ませんからね、どうしても手が届かないがちになるんです。伯母さんも、もう今じゃ、蚊帳よりお嫁が欲《ほし》いんですよ。」
あるじは、屹《きっ》と頭《かぶり》を掉《ふ》った。
「いいえ、よします。」
「なぜですね、謹さん。」と見上げた目に、あえて疑《うたがい》の色はなく、別に心あって映ったのであった。
「なぜというと議論になります。ただね、私は欲くないんです。
こういえば、理窟もつけよう、またどうこうというけれどね、年よりのためにも他人の交《まじ》らない方が気楽で可《い》いかも知れません。お民さん、貴女《あなた》がこうやって遊びに来てくれたって、知らない婦人《おんな》が居ようより、阿母《おふくろ》と私ばかりの方が、御馳走《ごちそう》は届かないにした処で、水入らずで、気が置けなくって可いじゃありませんか。」
「だって、謹さん、私がこうして居いいために、一生|貴方《あなた》、奥さんを持たないでいられますか。それも、五年と十年と、このままで居たいたって、こちらに居られます身体《からだ》じゃなし、もう二週間の上になったって、五日目ぐらいから、やいやい帰れって、言って来て、三度めに来た手紙なんぞの様子じゃ、良人
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