に、濠端《ほりばた》を通るんです。枢は下りて、貴女の寝た事は知りながら、今にも濠へ、飛込もうとして、この片足が崖《がけ》をはずれる、背後《うしろ》でしっかりと引き留めて、何をするの、謹さん、と貴女がきっというと確《たしか》に思った。
ですから、死のうと思い、助かりたい、と考えながら、そんな、厭《いや》な、恐ろしい濠端を通ったのも、枢をおろして寝なすった、貴女が必ず助けてくれると、それを力にしたんです。お庇《かげ》で活きていたんですもの、恩人でなくッてさ、貴女は命の親なんですよ。」
とただ懐かしげに嬉しそうにいう顔を、じっと見る見る、ものをもいわず、お民ははらはらと、薄曇る燈《ともしび》の前に落涙した。
「お民さん、」
「謹さん、」
とばかり歯をカチリと、堰《せ》きあえぬ涙を噛《か》み留めつつ、
「口についていうようでおかしいんですが、私もやっぱり。貴下は、もう、今じゃこんなにおなりですから、私は要らなくなったでしょうが、私は今も、今だって、その時分から、何ですよ、同《おんな》じなんです、謹さん。慾《よく》にも、我慢にも、厭で厭で、厭で厭で死にたくなる時がありますとね、そうすると、貴下が来て、お留めなさると思ってね、それを便りにしていますよ。
まあ、同じようで不思議だから、これから別れて帰りましたら、私もまた、月夜にお濠端を歩行《ある》きましょう。そして貴下、謹さんのお姿が、そこへ出るのを見ましょうよ。」
と差俯向《さしうつむ》いた肩が震えた。
あるじは、思わず、火鉢なりに擦り寄って、
「飛んだ事を、串戯《じょうだん》じゃありません、そ、そ、そんな事をいって、譲《ゆずる》(小児の名)さんをどうします。」
「だって、だって、貴下がその年、その思いをしているのに、私はあの児《こ》を拵《こしら》えました。そんな、そんな児を構うものか。」
とすねたように鋭くいったが、露を湛《たた》えた花片《はなびら》を、湯気やなぶると、笑《えみ》を湛え、
「ようござんすよ。私はお濠を楽《たのし》みにしますから。でも、こんなじゃ、私の影じゃ、凄《すご》い死神なら可《い》いけれど、大方|鼬《いたち》にでも見えるでしょう。」
と投げたように、片身を畳に、褄《つま》も乱れて崩折《くずお》れた。
あるじは、ひたと寄せて、押《おさ》えるように、棄《す》てた女の手を取って、
「お民さん。」
「…………」
「国へ、国へ帰しやしないから。」
「あれ、お待ちなさい伯母さんが。」
「どうした、どうしたよ。」
という母の声、下に聞えて、わっとばかり、その譲という児が。
「煩《うるさ》いねえ!ちょいと、見て来ますからね、謹さん。」
とはらりと立って、脛《はぎ》白き、敷居際の立姿。やがてトントンと階下《した》へ下りたが、泣き留《や》まぬ譲を横抱きに、しばらくして品のいい、母親の形《なり》で座に返った。燈火の陰に胸の色、雪のごとく清らかに、譲はちゅうちゅうと乳を吸って、片手で縋《すが》って泣いじゃくる。
あるじは、きちんと坐《すわ》り直って、
「どうしたの、酷《ひど》く怯《おび》えたようだっけ。」
「夢を見たかい、坊や、どうしたのだねえ。」
と頬《ほお》に顔をかさぬれば、乳《ち》を含みつつ、愛らしい、大きな目をくるくるとやって、
「鼬が、阿母《おっか》さん。」
「ええ、」
二人は顔を見合わせた。
あるじは、居寄って顔を覗《のぞ》き、ことさらに打笑い、
「何、内へ鼬なんぞ出るものか。坊や、鼠の音を聞いたんだろう。」
小児《こども》はなお含んだまま、いたいけに捻向《ねじむ》いて、
「ううむ、内じゃないの。お濠《ほり》ン許《とこ》で、長い尻尾で、あの、目が光って、私《わたい》、私を睨《にら》んで、恐《こわ》かったの。」
と、くるりと向いて、ひったり母親のその柔かな胸に額を埋《うず》めた。
また顔を見合わせたが、今はその色も変らなかった。
「おお、そうかい、夢なんですよ。」
「恐かったな、恐かったな、坊や。」
「恐かったね。」
からからと格子が開いて、
「どうも、おそなわりました。」と勝手でいって、女中が帰る。
「さあ、御馳走だよ。」
と衝《つ》と立ったが、早急《さっきゅう》だったのと、抱いた重量《おもみ》で、裳《もすそ》を前に、よろよろと、お民は、よろけながら段階子《だんばしご》。
「謹さん。」
「…………」
「翌朝《あした》のお米は?」
と艶麗《はでやか》に莞爾《にっこり》して、
「早く、奥さんを持って下さいよ。ああ、女中さん御苦労でした。」
と下を向いて高く言った。
その時|襖《ふすま》の開く音がして、
「おそなわりました、御新造様《ごしんぞさま》。」
お民は答えず、ほと吐息。円髷《まげ》艶《つや》やかに二三段、片頬《かたほ》を見せて、
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