あるという騒ぎだ。」
「何のそれが騒ぎなことがあるもんですか。またいつかのように、夏中蚊帳が無くっては、それこそお家は騒動ですよ。」
「騒動どころか没落だ。いや、弱りましたぜ、一夏は。
 何しろ、家の焼けた年でしょう。あの焼あとというものは、どういうわけだか、恐しく蚊が酷《ひど》い。まだその騒ぎの無い内、当地《こちら》で、本郷のね、春木町の裏長屋を借りて、夥間《なかま》と自炊をしたことがありましたっけが、その時も前の年火事があったといって、何年にもない、大変な蚊でしたよ。けれども、それは何、少《わか》いもの同志だから、萌黄縅《もえぎおどし》の鎧《よろい》はなくても、夜一夜《よっぴて》、戸外《おもて》を歩行《ある》いていたって、それで事は済みました。
 内じゃ、年よりを抱えていましょう。夜が明けても、的《あて》はないのに、夜中一時二時までも、友達の許《とこ》へ、苦《くるし》い時の相談の手紙なんか書きながら、わきで寝返りなさるから、阿母《おっか》さん、蚊が居ますかって聞くんです。
 自分の手にゃ五ツ六ツたかっているのに。」
 主人《あるじ》は火鉢にかざしながら、
「居ますかもないもんだ。
 ああ、ちっと居るようだの、と何でもないように、言われるんだけれども、なぜ阿母《おふくろ》には居るだろうと、口惜《くやし》いくらいでね。今に工面してやるから可《い》い、蚊の畜生覚えていろと、無念骨髄《むねんこつずい》でしたよ。まだそれよりか、毒虫のぶんぶん矢を射るような烈《はげし》い中に、疲れて、すやすや、……傍《わき》に私の居るのを嬉しそうに、快よさそうに眠られる時は、なお堪《たま》らなくって泣きました。」
 聞く方が歎息して、
「だってねえ、よくそれで無事でしたね。」
 顔見られたのが不思議なほどの、懐かしそうな言《ことば》であった。
「まさか、蚊に喰殺されたという話もない。そんな事より、恐るべきは兵糧《ひょうろう》でしたな。」
「そうだってねえ。今じゃ笑いばなしになったけれど。」
「余りそうでもありません。しかしまあ、お庇様《かげさま》、どうにか蚊帳もありますから。」
「ほんとに、どんなに辛かったろう、謹さん、貴下《あなた》。」と優しい顔。
「何、私より阿母ですよ。」
「伯母さんにも聞きました。伯母さんはまた自分の身がかせになって、貴下が肩が抜けないし、そうかといって、修行中で、
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