だ》すやうにして下駄《げた》を穿《は》き、上へ蔽《おっ》かぶさつて、沓脱越《くつぬぎごし》に此方《こちら》から戸をあけるお辻の脇あけの下あたりから、つむりを出して、ひよこ/\と出て行つた。渠《かれ》は些《ち》と遠方をかけて、遠縁のものの通夜《つや》に詣《まい》つたのである。其がために女《むすめ》が一人だからと、私を泊《と》めたのであつた。
三
枕に就《つ》いたのは、良《やや》ほど過ぎて、私の家《うち》の職人衆が平時《いつも》の湯から帰る時分。三人づれで、声高《こわだか》にものを言つて、笑ひながら入つた、何《ど》うした、などと言ふのが手に取るやうに聞えたが、又|笑声《わらいごえ》がして、其から寂然《ひっそり》。
戸外《おもて》の方は騒がしい、仏間《ぶつま》の方《かた》を、とお辻はいつたけれども其方《そっち》を枕にすると、枕頭《まくらもと》の障子|一重《ひとえ》を隔てて、中庭といふではないが一坪ばかりのしツくひ叩《たたき》の泉水《せんすい》があつて、空は同一《おなじ》ほど長方形に屋根を抜いてあるので、雨も雪も降込《ふりこ》むし、水が溜《たま》つて濡《ぬ》れて居るのに、以前|女髪結《おんなかみゆい》が住んで居て、取散《とりちら》かした元結《もっとい》が化《な》つたといふ、足巻《あしまき》と名づける針金に似た黒い蚯蚓《みみず》が多いから、心持《こころもち》が悪くつて、故《わざ》と外を枕にして、並んで寝たが、最《も》う夏の初めなり、私には清らかに小掻巻《こがいまき》。
寝る時、着換《きか》へて、と謂《い》つて、女《むすめ》の浴衣《ゆかた》と、紅《あか》い扱帯《しごき》をくれたけれども、角兵衛獅子《かくべえじし》の母衣《ほろ》ではなし、母様《おっかさん》のいひつけ通り、帯を〆《し》めたまゝで横になつた。
お辻は寒さをする女《むすめ》で、夜具《やぐ》を深く被《か》けたのである。
唯《と》顔を見合せたが、お辻は思出《おもいだ》したやうに、莞爾《にっこり》して、
「さつき、駆出《かけだ》して来て、薬屋の前でころんだのね、大《おおき》な形《なり》をして、をかしかつたよ。」
「呀《や》、復《また》見て居たの、」と私は思はず。……
之《これ》は此の春頃から、其まで人の出入《ではいり》さへ余りなかつた上《かみ》の薬屋が方《かた》へ、一|人《にん》の美少年が来て一所《いっしょ》に居る、女主人《おんなあるじ》の甥《おい》ださうで、信濃《しなの》のもの、継母《ままはは》に苛《いじ》められて家出をして、越後なる叔母《おば》を便《たよ》つたのだと謂《い》ふ。
此のほどから黄昏《たそがれ》に、お辻が屋根へ出て、廂《ひさし》から山手《やまて》の方《ほう》を覗《のぞ》くことが、大抵|日毎《ひごと》、其は二階の窓から私も見た。
一体裏に空地はなし、干物《ほしもの》は屋根でする、板葺《いたぶき》の平屋造《ひらやづくり》で、お辻の家は、其真中《そのまんなか》、泉水のある処《ところ》から、二間梯子《にけんばしご》を懸けてあるので、悪戯《いたずら》をするなら小児《こども》でも上下《あがりおり》は自由な位、干物に不思議はないが、待て、お辻の屋根へ出るのは、手拭《てぬぐい》一筋《ひとすじ》棹《さお》に懸《かか》つて居る時には限らない、恰《あたか》も山の裾《すそ》へかけて紙谷町は、だら/\のぼり、斜めに高いから一目に見える、薬屋の美少年をお辻が透見《すきみ》をするのだと、内の職人どもが言《ことば》を、小耳《こみみ》にして居るさへあるに、先刻《さっき》転んだことを、目《ま》のあたり知つて居るも道理こそ。
呀《や》、復《また》見て居たの……といつたは其の所為《せい》で、私は何の気もなかつたのであるが、之《これ》を聞くと、目をぱつちりあけたが顔を赧《あか》らめ、
「厭《いや》な!」といつて、口許《くちもと》まで天鵞絨《びろうど》の襟《えり》を引《ひっ》かぶつた。
「そして転んだのを知つてるの、をかしいな、辻《つう》ちやんは転んだのを知つてるし、彼《あ》のをばさんは、私の泊るのを知つて居たよ、皆《みんな》知つて居ら、をかしいな。」
四
「え!」と慌《あわただ》しく顔を出して、まともに向直《むきなお》つて、じつと見て、
「今夜泊ることを知つて居ました?」
「あゝ、整《ちゃん》と然《そ》う言つたんだもの。」
お辻は美しい眉《まゆ》を顰《ひそ》めた。燈火《ともしび》の影暗く、其の顔|寂《さみ》しう、
「恐《おそろ》しい人だこと、」といひかけて、再び面《おもて》を背《そむ》けると、又|深々《ふかぶか》と夜具《やぐ》をかけた。
「辻《つう》ちやん。」
「…………」
「辻《つう》ちやんてば、」
「…………」
「よう。」
こんな約束ではなかつた
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