のである、俊徳丸《しゅんとくまる》の物語のつゞき、それから手拭《てぬぐい》を藪《やぶ》へ引いて行つた、踊《おどり》をする三《さん》といふ猫の話、それもこれも寝てからといふのであつたに、詰《つま》らない、寂《さび》しい、心細い、私は帰らうと思つた。丁《ちょう》ど其時《そのとき》、どんと戸を引いて、かたりと鎖《じょう》をさした我家《わがや》の響《ひびき》。
胸が轟《とどろ》いて掻巻《かいまき》の中で足をばた/\したが、堪《たま》らなくツて、くるりとはらばひになつた。目を開《あ》いて耳を澄《すま》すと、物音は聞えないで、却《かえっ》て戸外《おもて》なる町が歴然《ありあり》と胸に描かれた、暗《やみ》である。駆けて出て我家《わがや》の門《かど》へ飛着《とびつ》いて、と思ふに、夜《よ》も恁《こ》う更《ふ》けて、他人《ひと》の家からは勝手が分らず、考ふれば、毎夜|寐《ね》つきに聞く職人が湯から帰る跫音《あしおと》も、向うと此方《こちら》、音にも裏表《うらおもて》があるか、様子も違つて居た。世界が変つたほど情《なさけ》なくなつて、枕頭《まくらもと》に下《おろ》した戸外《おもて》から隔ての蔀《しとみ》が、厚さ十万里を以て我を囲ふが如く、身動きも出来ないやうに覚えたから、これで殺されるのか知らと涙ぐんだのである。
ものの懸念さに、母様《おっかさん》をはじめ、重吉《じゅうきち》も、嘉蔵《かぞう》も呼立《よびた》てる声も揚げられず、呼吸《いき》さへ高くしてはならない気がした。
密《そっ》と見れば、お辻はすや/\と糸が揺れるやうに幽《かすか》な寐息《ねいき》。
これも何者かに命ぜられて然《し》かく寐《ね》入つて居るらしい、起してはならないやうに思はれ、アヽ復《また》横になつて、足を屈《かが》めて、目を塞《ふさ》いだ。
けれども今しがた、お辻が(恐《おそろ》しい人だこと、)といつた時、其の顔色とともに灯《あかし》が恐しく暗くなつたが、消えはしないだらうかと、いきなり電《いなびかり》でもするかの如く、恐る/\目をあけて見ると、最《も》う真暗《まっくら》、灯《あかり》はいつの間《ま》にか消えて居る。
はツと驚いて我ながら、自分の膚《はだ》に手を触れて、心臓《むね》をしつかと圧《おさ》へた折から、芬々《ぷんぷん》として薫《にお》つたのは、橘《たちばな》の音信《おとずれ》か、あらず、仏壇の香《こう》の名残《なごり》か、あらず、ともすれば風につれて、随所、紙谷町を渡り来る一種の薬の匂《におい》であつた。
しかも梅の影がさして、窓がぽつと明《あかる》くなる時、縁《えん》に蚊遣《かやり》の靡《なび》く時、折に触れた今までに、つい其夜《そのよ》の如く香《か》の高かつた事はないのである。
瓶《びん》か、壺《つぼ》か、其の薬が宛然《さながら》枕許《まくらもと》にでもあるやうなので、余《あまり》の事に再び目をあけると、暗《くらやみ》の中に二枚の障子。件《くだん》の泉水《せんすい》を隔てて寝床の裾《すそ》に立つて居るのが、一間《いっけん》真蒼《まっさお》になつて、桟《さん》も数へらるゝばかり、黒みを帯びた、動かぬ、どんよりした光がさして居た。
見る/\裡《うち》に、べら/\と紙が剥《は》げ、桟が吹《ふ》ツ消《け》されたやうに、ありのまゝで、障子が失《う》せると、羽目《はめ》の破目《やぶれめ》にまで其の光が染《し》み込んだ、一坪の泉水を後《うしろ》に、立顕《たちあらわ》れた婦人《おんな》の姿。
解《と》き余る鬢《びん》の堆《うずたか》い中に、端然として真向《まむき》の、瞬《またた》きもしない鋭い顔は、正《まさ》しく薬屋の主婦《あるじ》である。
唯《と》見る時、頬《ほお》を蔽《おお》へる髪のさきに、ゆら/\と波立《なみだ》つたが、そよりともせぬ、裸蝋燭《はだかろうそく》の蒼《あお》い光を放つのを、左手《ゆんで》に取つてする/\と。
五
其の裳《もすそ》の触《ふ》るゝばかり、すツくと枕許に突立《つった》つた、私は貝を磨いたやうな、足の指を寝ながら見て呼吸《いき》を殺した、顔も冷《つめと》うなるまでに、室《ま》の内を隈《くま》なく濁つた水晶に化し了するのは蝋燭の鬼火である。鋭い、しかし媚《なまめ》いた声して、
「腕白《わんぱく》、先刻《さっき》はよく人の深切《しんせつ》を無にしたね。」
私は石になるだらうと思つて、一思《ひとおもい》に窘《すく》んだのである。
「したが私の深切を受ければ、此の女《むすめ》に不深切になる処《ところ》。感心にお前、母様《おっかさん》に結んで頂いた帯を〆《し》めたまゝ寝てること、腕白もの、おい腕白もの、目をぱちくりして寝て居るよ。」といつて、ふふんと鷹揚《おうよう》に笑つた。姐御《あねご》真実《まったく》だ、最《も
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