》う堪《たま》らぬ。
途端に人膚《ひとはだ》の気勢《けはい》がしたので、咽喉《のど》を噛《かま》れたらうと思つたが、然《そ》うではなく、蝋燭が、敷蒲団《しきぶとん》の端と端、お辻と並んで合せ目の、畳《たたみ》の上に置いてあつた。而《そう》して婦人《おんな》は膝《ひざ》をついて、のしかゝるやうにして、鬢《びん》の間《あい》から真白な鼻で、お辻の寐《ね》顔の半《なかば》夜具《やぐ》を引《ひっ》かついで膨らんだ前髪の、眉《まゆ》のかゝり目のふちの稍《やや》曇つて見えるのを、じつと覗込《のぞきこ》んで居るのである。おゝ、あはれ、小《ささ》やかに慎《つつ》ましい寐姿は、藻脱《もぬけ》の殻か、山に夢がさまよふなら、衝戻《つきもど》す鐘も聞えよ、と念じ危《あや》ぶむ程こそありけれ。
婦人《おんな》は右手《めて》を差伸《さしのば》して、結立《ゆいたて》の一筋《ひとすじ》も乱れない、お辻の高島田を無手《むず》と掴《つか》んで、づツと立つた。手荒さ、烈《はげ》しさ。元結《もとゆい》は切れたから、髪のずるりと解《と》けたのが、手の甲《こう》に絡《まつ》はると、宙に釣《つる》されるやうになつて、お辻は半身《はんしん》、胸もあらはに、引起《ひきおこ》されたが、両手を畳に裏返して、呼吸《いき》のあるものとは見えない。
爾時《そのとき》、右手《めて》に黒髪を搦《から》んだなり、
「人もあらうに私の男に懸想《けそう》した。さあ、何《ど》うするか、よく御覧。」
左手《ゆんで》の肱《ひじ》を鍵形《かぎなり》に曲げて、衝《つ》と目よりも高く差上《さしあ》げた、掌《たなそこ》に、細長い、青い、小さな瓶《びん》あり、捧げて、俯向《うつむ》いて、額《ひたい》に押当《おしあ》て、
「呪詛《のろい》の杉より流れし雫《しずく》よ、いざ汝《なんじ》の誓《ちかい》を忘れず、目《ま》のあたり、験《しるし》を見せよ、然《さ》らば、」と言つて、取直《とりなお》して、お辻の髪の根に口を望ませ、
「あの美少年と、容色《きりょう》も一対《いっつい》と心上《こころあが》つた淫奔女《いたずらもの》、いで/\女の玉《たま》の緒《お》は、黒髪とともに切れよかし。」
と恰《あたか》も宣告をするが如くに言つて、傾けると、颯《さっ》とかゝつて、千筋《ちすじ》の紅《くれない》溢《あふ》れて、糸を引いて、ねば/\と染《にじ》むと思ふと、丈《たけ》なる髪はほつり[#「ほつり」に傍点]と切れて、お辻は崩れるやうに、寝床の上、枕をはづして土気色《つちけいろ》の頬《ほお》を蒲団《ふとん》に埋《うず》めた。
玉の緒か、然《さ》らば玉の緒は、長く婦人《おんな》の手に奪はれて、活《い》きたる如く提《ひっさ》げられたのである。
莞爾《かんじ》として朱《しゅ》の唇の、裂けるかと片頬笑《かたほえ》み、
「腕白《わんぱく》、膝《ひざ》へ薬をことづかつてくれれば、私が来るまでもなく、此の女《むすめ》は殺せたものを、夜《よ》が明けるまで黙つて寐《ね》なよ。」といひすてにして、細腰《さいよう》楚々《そそ》たる後姿《うしろすがた》、肩を揺《ゆす》つて、束《つか》ね髱《たぼ》がざわ/\と動いたと見ると、障子の外。
蒼《あお》い光は浅葱幕《あさぎまく》を払つたやうに颯《さっ》と消えて、襖《ふすま》も壁も旧《もと》の通り、燈《ともしび》が薄暗く点《つ》いて居た。
同時に、戸外《おもて》を山手《やまて》の方《かた》へ、からこん/\と引摺《ひきず》つて行く婦人《おんな》の跫音《あしおと》、私はお辻の亡骸《なきがら》を見まいとして掻巻《かいまき》を被《かぶ》つたが、案外かな。
抱起《だきおこ》されると眩《まばゆ》いばかりの昼であつた。母親も帰つて居た。抱起したのは昨夜《ゆうべ》のお辻で、高島田も其まゝ、早《は》や朝の化粧《けわい》もしたか、水の垂《た》る美しさ。呆気《あっけ》に取られて目も放さないで目詰《みつ》めて居ると、雪にも紛《まが》ふ頸《うなじ》を差《さし》つけ、くツきりした髷《まげ》の根を見せると、白粉《おしろい》の薫《かおり》、櫛《くし》の歯も透通《すきとお》つて、
「島田がお好《すき》かい、」と唯《ただ》あでやかなものであつた。私は家に帰つて後《のち》も、疑《うたがい》は今に解《と》けぬ。
お辻は十九で、敢《あえ》て不思議はなく、煩《わずら》つて若死《わかじに》をした、其の黒髪を切つたのを、私は見て悚然《ぞっ》としたけれども、其は仏教を信ずる国の習慣であるさうな。
底本:「日本幻想文学集成1 泉鏡花」国書刊行会
1991(平成3)年3月25日初版第1刷発行
1995(平成7)年10月9日初版第5刷発行
底本の親本:「泉鏡花全集」岩波書店
1940(昭和15)年発行
初出:「天地人」
19
前へ
次へ
全6ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング