しめき》つて、空屋に等しい暗い中に、破風《はふ》の隙《ひま》から、板目《いため》の節《ふし》から、差入《さしい》る日の光|一筋《ひとすじ》二筋《ふたすじ》、裾広《すそひろ》がりにぱつと明《あかる》く、得《え》も知れぬ塵埃《ちりほこり》のむら/\と立つ間《あいだ》を、兎《と》もすればひら/\と姿の見える、婦人《おんな》の影。
 転んで手をつくと、はや薬の匂《におい》がして膚《はだえ》を襲つた。此の一町《いっちょう》がかりは、軒《のき》も柱も土も石も、残らず一種の香《か》に染《し》んで居る。
 身に痛みも覚えぬのに、場所もこそあれ、此処《ここ》はと思ふと、怪しいものに捕《とら》へられた気がして、わつと泣き出した。

        二

「あれ危《あぶな》い。」と、忽《たちま》ち手を伸《の》べて肩をつかまへたのは彼《か》の婦人《おんな》で。
 其の黒髪の中の大理石のやうな顔を見ると、小さな者はハヤ震へ上つて、振※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]《ふりもぎ》らうとして身をあせつて、仔雀《こすずめ》の羽《は》うつ風情《ふぜい》。
 怪しいものでも声は優しく、
「おゝ、膝《ひざ》が擦剥《すりむ》けました、薬をつけて上げませう。」と左手《ゆんで》には何《ど》うして用意をしたらう、既に薫《かおり》の高いのを持つて居た。
 守宮《やもり》の血で二《に》の腕《うで》に極印《ごくいん》をつけられるまでも、膝に此の薬を塗られて何《ど》うしよう。
「厭《いや》だ、厭だ。」と、しやにむに身悶《みもだえ》して、声高《こわだか》になると、
「強情だねえ、」といつたが、漸《やっ》と手を放し、其のまゝ駆出《かけだ》さうとする耳の底へ、
「今夜、お辻さんの処《ところ》へ泊りに行《ゆ》くね。」
 といふ一聯《いちれん》の言《ことば》を刻《きざ》んだのを、……今に到つて忘れない。
 内へ帰ると早速、夕餉《ゆうげ》を済《すま》し、一寸《ちょいと》着換《きか》へ、糸、犬、錨《いかり》、などを書いた、読本《どくほん》を一冊、草紙《そうし》のやうに引提《ひっさ》げて、母様《おっかさん》に、帯の結目《むすびめ》を丁《トン》と叩《たた》かれると、直《すぐ》に戸外《おもて》へ。
 海から颯《さっ》と吹く風に、本のペエジを乱しながら、例のちよこ/\、をばさん、辻《つう》ちやんと呼びざまに、からりと開《あ》けて飛込《とびこ》んだ。
 人仕事《ひとしごと》に忙《いそがわ》しい家の、晩飯の支度は遅く、丁《ちょう》ど御膳《ごぜん》。取附《とっつき》の障子を開《あ》けると、洋燈《ランプ》の灯《あかし》も朦朧《もうろう》とするばかり、食物《たべもの》の湯気が立つ。
 冬でも夏でも、暑い汁《つゆ》の好《すき》だつたお辻の母親は、むんむと気の昇る椀《わん》を持つたまゝ、ほてつた顔をして、
「おや、おいで。」
「大層おもたせぶりね、」とお辻は箸箱《はしばこ》をがちやりと云はせる。
 母親もやがて茶碗の中で、さら/\と洗つて塗箸《ぬりばし》を差置《さしお》いた。
 手で片頬《かたほ》をおさへて、打傾《うちかたむ》いて小楊枝《こようじ》をつかひながら、皿小鉢《さらこばち》を寄せるお辻を見て、
「あしたにすると可《い》いやね、勝手へ行つてたら坊《ぼう》ちやんが淋《さび》しからう、私は直《すぐ》に出懸《でか》けるから。」
「然《そ》うねえ。」
「可《い》いよ、可《い》いよ、構《かま》やしないや、独《ひとり》で遊んでら。」と無雑作《むぞうさ》に、小さな足で大胡坐《おおあぐら》になる。
「ぢや、まあ、お出懸けなさいまし。」
「大人《おとな》しいね。感心、」と頭を撫《な》でる手つきをして、
「どれ、其《それ》では、」楊枝を棄《す》てると、やつとこさ、と立ち上つた。
 お辻が膳《ぜん》を下げる内に、母親は次の仏間《ぶつま》で着換《きか》へる様子、其処《そこ》に箪笥《たんす》やら、鏡台やら。
 最一《もひと》ツ六畳が別に戸外《おもて》に向いて居て、明取《あかりとり》が皆《みんな》で三|間《げん》なり。
 母親はやがて、繻子《しゅす》の帯を、前結びにして、風呂敷包《ふろしきづつみ》を持つて顕《あらわ》れた。お辻の大柄な背のすらりとしたのとは違ひ、丈《たけ》も至つて低く、顔容《かおかたち》も小造《こづくり》な人で、髪も小さく結《ゆ》つて居た。
「それでは、お辻や。」
「あい、」と、がちや/\いはせて居た、彼方《かなた》の勝手で返事をし、襷《たすき》がけのまゝ、駆けて来て、
「気をつけて行らつしやいましよ。」
「坊《ぼっ》ちやん、緩《ゆっく》り遊んでやつて下さい。直ぐ寝つちまつちやあ不可《いけ》ませんよ、何《ど》うも御苦労様なことツたら、」
 とあとは独言《ひとりごと》、框《かまち》に腰をかけて、足を突出《つき
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