しめき》つて、空屋に等しい暗い中に、破風《はふ》の隙《ひま》から、板目《いため》の節《ふし》から、差入《さしい》る日の光|一筋《ひとすじ》二筋《ふたすじ》、裾広《すそひろ》がりにぱつと明《あかる》く、得《え》も知れぬ塵埃《ちりほこり》のむら/\と立つ間《あいだ》を、兎《と》もすればひら/\と姿の見える、婦人《おんな》の影。
 転んで手をつくと、はや薬の匂《におい》がして膚《はだえ》を襲つた。此の一町《いっちょう》がかりは、軒《のき》も柱も土も石も、残らず一種の香《か》に染《し》んで居る。
 身に痛みも覚えぬのに、場所もこそあれ、此処《ここ》はと思ふと、怪しいものに捕《とら》へられた気がして、わつと泣き出した。

        二

「あれ危《あぶな》い。」と、忽《たちま》ち手を伸《の》べて肩をつかまへたのは彼《か》の婦人《おんな》で。
 其の黒髪の中の大理石のやうな顔を見ると、小さな者はハヤ震へ上つて、振※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]《ふりもぎ》らうとして身をあせつて、仔雀《こすずめ》の羽《は》うつ風情《ふぜい》。
 怪しいものでも声は優しく、
「おゝ、膝《ひざ》が擦剥《すりむ》けました、薬をつけて上げませう。」と左手《ゆんで》には何《ど》うして用意をしたらう、既に薫《かおり》の高いのを持つて居た。
 守宮《やもり》の血で二《に》の腕《うで》に極印《ごくいん》をつけられるまでも、膝に此の薬を塗られて何《ど》うしよう。
「厭《いや》だ、厭だ。」と、しやにむに身悶《みもだえ》して、声高《こわだか》になると、
「強情だねえ、」といつたが、漸《やっ》と手を放し、其のまゝ駆出《かけだ》さうとする耳の底へ、
「今夜、お辻さんの処《ところ》へ泊りに行《ゆ》くね。」
 といふ一聯《いちれん》の言《ことば》を刻《きざ》んだのを、……今に到つて忘れない。
 内へ帰ると早速、夕餉《ゆうげ》を済《すま》し、一寸《ちょいと》着換《きか》へ、糸、犬、錨《いかり》、などを書いた、読本《どくほん》を一冊、草紙《そうし》のやうに引提《ひっさ》げて、母様《おっかさん》に、帯の結目《むすびめ》を丁《トン》と叩《たた》かれると、直《すぐ》に戸外《おもて》へ。
 海から颯《さっ》と吹く風に、本のペエジを乱しながら、例のちよこ/\、をばさん、辻《つう》ちやんと呼びざまに、からりと開《あ》けて
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