《つまず》いて礑《はた》と倒れたのである。
俗にいふ越後は八百八後家《はっぴゃくやごけ》、お辻が許《とこ》も女ぐらし、又|海手《うみて》の二階屋も男気《おとこげ》なし、棗《なつめ》の樹《き》のある内も、男が出入《ではいり》をするばかりで、年増《としま》は蚊帳《かや》が好《すき》だといふ、紙谷町一町の間《あいだ》に、四軒、いづれも夫なしで、就中《なかんずく》今転んだのは、勝手の知れない怪しげな婦人の薬屋であつた。
何処《いずこ》も同一《おなじ》、雪国の薄暗い屋造《やづくり》であるのに、廂《ひさし》を長く出した奥深く、煤《すす》けた柱に一枚懸けたのが、薬の看板で、雨にも風にも曝《さら》された上、古び切つて、虫ばんで、何といふ銘《めい》だか誰《たれ》も知つたものはない。藍《あい》を入れた字のあとは、断々《きれぎれ》になつて、恰《あたか》も青い蛇《へび》が、渦《うずま》き立つ雲がくれに、昇天をする如く也《なり》。
別に、風邪薬《かざぐすり》を一|貼《ちょう》、凍傷《しもやけ》の膏薬《こうやく》一貝《ひとかい》買ひに行つた話は聞かぬが、春の曙《あけぼの》、秋の暮、夕顔の咲けるほど、炉《ろ》の榾《ほだ》の消《き》ゆる時、夜中にフト目の覚《さ》むる折など、町中《まちなか》を籠《こ》めて芬々《ぷんぷん》と香《にお》ふ、湿《しめ》ぽい風は薬屋の気勢《けはい》なので。恐らく我国の薬種《やくしゅ》で無からう、天竺《てんじく》伝来か、蘭方《らんぽう》か、近くは朝鮮、琉球《りゅうきゅう》あたりの妙薬に相違ない。然《そ》う謂《い》へば彼《あ》の房々《ふさふさ》とある髪は、なんと、物語にこそ謂へ目前《まのあたり》、解《と》いたら裾《すそ》に靡《なび》くであらう。常に其《それ》を、束《たば》ね髪《がみ》にしてカツシと銀《しろがね》の簪《かんざし》一本、濃く且《か》つ艶《つやや》かに堆《うずたか》い鬢《びん》の中から、差覗《さしのぞ》く鼻の高さ、頬《ほお》の肉しまつて色は雪のやうなのが、眉《まゆ》を払つて、年紀《とし》の頃も定かならず、十年も昔から今にかはらぬといふのである。
内の様子も分らないから、何となく薄気味が悪いので、小児《こども》の気にも、暮方《くれがた》には前を通るさへ駆け出すばかりにする。真昼間《まっぴるま》、向う側から密《そっ》と透《すか》して見ると、窓も襖《ふすま》も閉切《
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