香《こう》の名残《なごり》か、あらず、ともすれば風につれて、随所、紙谷町を渡り来る一種の薬の匂《におい》であつた。
しかも梅の影がさして、窓がぽつと明《あかる》くなる時、縁《えん》に蚊遣《かやり》の靡《なび》く時、折に触れた今までに、つい其夜《そのよ》の如く香《か》の高かつた事はないのである。
瓶《びん》か、壺《つぼ》か、其の薬が宛然《さながら》枕許《まくらもと》にでもあるやうなので、余《あまり》の事に再び目をあけると、暗《くらやみ》の中に二枚の障子。件《くだん》の泉水《せんすい》を隔てて寝床の裾《すそ》に立つて居るのが、一間《いっけん》真蒼《まっさお》になつて、桟《さん》も数へらるゝばかり、黒みを帯びた、動かぬ、どんよりした光がさして居た。
見る/\裡《うち》に、べら/\と紙が剥《は》げ、桟が吹《ふ》ツ消《け》されたやうに、ありのまゝで、障子が失《う》せると、羽目《はめ》の破目《やぶれめ》にまで其の光が染《し》み込んだ、一坪の泉水を後《うしろ》に、立顕《たちあらわ》れた婦人《おんな》の姿。
解《と》き余る鬢《びん》の堆《うずたか》い中に、端然として真向《まむき》の、瞬《またた》きもしない鋭い顔は、正《まさ》しく薬屋の主婦《あるじ》である。
唯《と》見る時、頬《ほお》を蔽《おお》へる髪のさきに、ゆら/\と波立《なみだ》つたが、そよりともせぬ、裸蝋燭《はだかろうそく》の蒼《あお》い光を放つのを、左手《ゆんで》に取つてする/\と。
五
其の裳《もすそ》の触《ふ》るゝばかり、すツくと枕許に突立《つった》つた、私は貝を磨いたやうな、足の指を寝ながら見て呼吸《いき》を殺した、顔も冷《つめと》うなるまでに、室《ま》の内を隈《くま》なく濁つた水晶に化し了するのは蝋燭の鬼火である。鋭い、しかし媚《なまめ》いた声して、
「腕白《わんぱく》、先刻《さっき》はよく人の深切《しんせつ》を無にしたね。」
私は石になるだらうと思つて、一思《ひとおもい》に窘《すく》んだのである。
「したが私の深切を受ければ、此の女《むすめ》に不深切になる処《ところ》。感心にお前、母様《おっかさん》に結んで頂いた帯を〆《し》めたまゝ寝てること、腕白もの、おい腕白もの、目をぱちくりして寝て居るよ。」といつて、ふふんと鷹揚《おうよう》に笑つた。姐御《あねご》真実《まったく》だ、最《も
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