山の手小景
泉鏡花
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)矢來町《やらいちやう》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地より5字上げ]明治三十五年十二月
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)けば/\しく
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矢來町《やらいちやう》
「お美津《みつ》、おい、一寸《ちよつと》、あれ見《み》い。」と肩《かた》を擦合《すりあ》はせて居《ゐ》る細君《さいくん》を呼《よ》んだ。旦那《だんな》、其《そ》の夜《よ》の出《で》と謂《い》ふは、黄《き》な縞《しま》の銘仙《めいせん》の袷《あはせ》に白縮緬《しろちりめん》の帶《おび》、下《した》にフランネルの襯衣《シヤツ》、これを長襦袢《ながじゆばん》位《くらゐ》に心得《こゝろえ》て居《ゐ》る人《ひと》だから、けば/\しく一着《いつちやく》して、羽織《はおり》は着《き》ず、洋杖《ステツキ》をついて、紺足袋《こんたび》、山高帽《やまたかばう》を頂《いたゞ》いて居《ゐ》る、脊《せ》の高《たか》い人物《じんぶつ》。
「何《なん》ですか。」
と一寸《ちよつと》横顏《よこがほ》を旦那《だんな》の方《はう》に振向《ふりむ》けて、直《す》ぐに返事《へんじ》をした。此《こ》の細君《さいくん》が、恁《か》う又《また》直《たゞ》ちに良人《をつと》の口《くち》に應《おう》じたのは、蓋《けだ》し珍《めづら》しいので。……西洋《せいやう》の諺《ことわざ》にも、能辯《のうべん》は銀《ぎん》の如《ごと》く、沈默《ちんもく》は金《きん》の如《ごと》しとある。
然《さ》れば、神樂坂《かぐらざか》へ行《い》きがけに、前刻《さつき》郵便局《いうびんきよく》の前《まへ》あたりで、水入《みづい》らずの夫婦《ふうふ》が散歩《さんぽ》に出《で》たのに、餘《あま》り話《はなし》がないから、
(美津《みつ》、下駄《げた》を買《か》うてやるか。)と言《い》つて見《み》たが、默《だま》つて返事《へんじ》をしなかつた。貞淑《ていしゆく》なる細君《さいくん》は、其《そ》の品位《ひんゐ》を保《たも》つこと、恰《あたか》も大籬《おほまがき》の遊女《いうぢよ》の如《ごと》く、廊下《らうか》で會話《くわいわ》を交《まじ》へるのは、仂《はした》ないと思《おも》つたのであらう。
(あゝん、此《こ》のさきの下駄《げた》屋《や》の方《はう》が可《えゝ》か、お前《まへ》好《すき》な處《ところ》で買《か》へ、あゝん。)と念《ねん》を入《い》れて見《み》たが、矢張《やつぱり》默《だま》つて、爾時《そのとき》は、おなじ横顏《よこがほ》を一寸《ちよつと》背《そむ》けて、あらぬ處《ところ》を見《み》た。
丁度《ちやうど》左側《ひだりがは》を、二十《はたち》ばかりの色《いろ》の白《しろ》い男《をとこ》が通《とほ》つた。旦那《だんな》は稍《やゝ》濁《にご》つた聲《こゑ》の調子高《てうしだか》に、
(あゝん、何《ど》うぢや。)
(嫌《いや》ですことねえ、)と何《なに》とも着《つ》かぬことを謂《い》つたのであるが、其間《そのかん》の消息《せうそく》自《おのづか》ら神契《しんけい》默會《もくくわい》。
(にやけた奴《やつ》ぢや、國賊《こくぞく》ちゆう!)と快《こゝろよ》げに、小指《こゆび》の尖《さき》ほどな黒子《ほくろ》のある平《ひらた》な小鼻《こばな》を蠢《うごめ》かしたのである。謂《い》ふまでもないが、此《こ》のほくろは極《きは》めて僥倖《げうかう》に半《なかば》は髯《ひげ》にかくれて居《ゐ》るので。さて銀側《ぎんがは》の懷中《くわいちう》時計《どけい》は、散策《さんさく》の際《さい》も身《み》を放《はな》さず、件《くだん》の帶《おび》に卷着《まきつ》けてあるのだから、時《とき》は自分《じぶん》にも明《あきら》かであらう、前《さき》に郵便局《いうびんきよく》の前《まへ》を通《とほ》つたのが六時《ろくじ》三十分《さんじつぷん》で、歸《かへ》り途《みち》に通懸《とほりかゝ》つたのが、十一時《じふいちじ》少々《せう/\》過《す》ぎて居《ゐ》た。
夏《なつ》の初《はじ》めではあるけれども、夜《よる》の此《こ》の時分《じぶん》に成《な》ると薄《うす》ら寒《さむ》いのに、細君《さいくん》の出《で》は縞《しま》のフランネルに絲織《いとおり》の羽織《はおり》、素足《すあし》に蹈臺《ふみだい》を俯着《うツつ》けて居《ゐ》る、語《ご》を換《か》へて謂《い》へば、高《たか》い駒下駄《こまげた》を穿《は》いたので、悉《くは》しく言《い》へば泥《どろ》ぽツくり。旦那《だんな》が役所《やくしよ》へ通《かよ》ふ靴《くつ》の尖《さき》は輝《かゞや》いて居《ゐ》るけれども、細君《さいくん》の他所行《よそい
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