ことは、戰《たゝかひ》に鯨波《とき》を擧《あ》げるに齊《ひと》しい、曳々《えい/\》!と一齊《いつせい》に聲《こゑ》を合《あ》はせるトタンに、故郷《ふるさと》も、妻子《つまこ》も、死《し》も、時間《じかん》も、慾《よく》も、未練《みれん》も忘《わす》れるのである。
 同《おな》じ道理《だうり》で、坂《さか》は照《て》る/\鈴鹿《すゞか》は曇《くも》る=といひ、袷《あはせ》遣《や》りたや足袋《たび》添《そ》へて=と唱《とな》へる場合《ばあひ》には、いづれも疲《つかれ》を休《やす》めるのである、無益《むえき》なものおもひを消《け》すのである、寧《むし》ろ苦勞《くらう》を紛《まぎ》らさうとするのである、憂《うさ》を散《さん》じよう、戀《こひ》を忘《わす》れよう、泣音《なくね》を忍《しの》ばうとするのである。
 それだから追分《おひわけ》が何時《いつ》でもあはれに感《かん》じらるゝ。つまる處《ところ》、卑怯《ひけふ》な、臆病《おくびやう》な老人《らうじん》が念佛《ねんぶつ》を唱《とな》へるのと大差《たいさ》はないので、語《ご》を換《か》へて言《い》へば、不殘《のこらず》、節《ふし》をつけた不平
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