、破《やぶ》れて煤《すゝ》けたのを貼替《はりか》へたので、新規《しんき》に出來《でき》た店《みせ》ではない。柳屋《やなぎや》は土地《とち》で老鋪《しにせ》だけれども、手廣《てびろ》く商《あきなひ》をするのではなく、八九十|軒《けん》もあらう百|軒《けん》足《た》らずの此《こ》の部落《ぶらく》だけを花主《とくい》にして、今代《こんだい》は喜藏《きざう》といふ若《わか》い亭主《ていしゆ》が、自分《じぶん》で賣《う》りに※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]《まは》るばかりであるから、商《あきなひ》に出《で》た留守《るす》の、晝過《ひるすぎ》は森《しん》として、柳《やなぎ》の蔭《かげ》に腰障子《こししやうじ》が閉《し》まつて居《ゐ》る、樹《き》の下《した》、店《みせ》の前《まへ》から入口《いりくち》へ懸《か》けて、地《ぢ》の窪《くぼ》むだ、泥濘《ぬかるみ》を埋《う》めるため、一面《いちめん》に貝殼《かひがら》が敷《し》いてある、白《しろ》いの、半分《はんぶん》黒《くろ》いの、薄紅《うすべに》、赤《あか》いのも交《まじ》つて堆《うづたか》い。
隣屋《となり》は此《この》邊《へん》に棟《むね》を並《なら》ぶる木屋《きや》の大家《たいけ》で、軒《のき》、廂《ひさし》、屋根《やね》の上《うへ》まで、犇《ひし》と木材《もくざい》を積揃《つみそろ》へた、眞中《まんなか》を分《わ》けて、空高《そらだか》い長方形《ちやうはうけい》の透間《すきま》から凡《およ》そ三十|疊《でふ》も敷《し》けようといふ店《みせ》の片端《かたはし》が見《み》える、其《そ》の木材《もくざい》の蔭《かげ》になつて、日《ひ》の光《ひかり》もあからさまには射《さ》さず、薄暗《うすぐら》い、冷々《ひや/\》とした店前《みせさき》に、帳場格子《ちやうばがうし》を控《ひか》へて、年配《ねんぱい》の番頭《ばんとう》が唯《たゞ》一人《ひとり》帳合《ちやうあひ》をしてゐる。これが角屋敷《かどやしき》で、折曲《をれまが》ると灰色《はひいろ》をした道《みち》が一筋《ひとすぢ》、電柱《でんちう》の著《いちじる》しく傾《かたむ》いたのが、前《まへ》と後《うしろ》へ、別々《べつ/\》に頭《かしら》を掉《ふ》つて奧深《おくぶか》う立《た》つて居《ゐ》る、鋼線《はりがね》が又《また》半《なか》だるみをして、廂《ひさし》よりも低《ひく》い處《ところ》を、弱々《よわ/\》と、斜《なゝ》めに、さも/\衰《おとろ》へた形《かたち》で、永代《えいたい》の方《はう》から長《なが》く續《つゞ》いて居《ゐ》るが、圖《づ》に描《か》いて線《せん》を引《ひ》くと、文明《ぶんめい》の程度《ていど》が段々《だん/\》此方《こつち》へ來《く》るに從《したが》うて、屋根越《やねごし》に鈍《にぶ》ることが分《わか》るであらう。
單《たん》に電柱《でんちう》ばかりでない、鋼線《はりがね》ばかりでなく、橋《はし》の袂《たもと》の銀杏《いてふ》の樹《き》も、岸《きし》の柳《やなぎ》も、豆腐屋《とうふや》の軒《のき》も、角家《かどや》の塀《へい》も、それ等《ら》に限《かぎ》らず、あたりに見《み》ゆるものは、門《もん》の柱《はしら》も、石垣《いしがき》も、皆《みな》傾《かたむ》いて居《ゐ》る、傾《かたむ》いて居《ゐ》る、傾《かたむ》いて居《ゐ》るが盡《こと/″\》く一樣《いちやう》な向《むき》にではなく、或《ある》ものは南《みなみ》の方《はう》へ、或《ある》ものは北《きた》の方《はう》へ、また西《にし》の方《はう》へ、東《ひがし》の方《はう》へ、てん/″\ばら/\になつて、此《この》風《かぜ》のない、天《そら》の晴《は》れた、曇《くもり》のない、水面《すゐめん》のそよ/\とした、靜《しづ》かな、穩《おだや》かな日中《ひなか》に處《しよ》して、猶且《なほか》つ暴風《ばうふう》に揉《も》まれ、搖《ゆ》らるゝ、其《そ》の瞬間《しゆんかん》の趣《おもむき》あり。ものの色《いろ》もすべて褪《あ》せて、其《その》灰色《はひいろ》に鼠《ねずみ》をさした濕地《しつち》も、草《くさ》も、樹《き》も、一|部落《ぶらく》を蔽包《おほひつゝ》むだ夥多《おびたゞ》しい材木《ざいもく》も、材木《ざいもく》の中《なか》を見《み》え透《す》く溜池《ためいけ》の水《みづ》の色《いろ》も、一切《いつさい》、喪服《もふく》を着《つ》けたやうで、果敢《はか》なく哀《あはれ》である。
三
界隈《かいわい》の景色《けしき》がそんなに沈鬱《ちんうつ》で、濕々《じめ/\》として居《ゐ》るに從《したが》うて、住《す》む者《もの》もまた高聲《たかごゑ》ではものをいはない。歩行《あるく》にも内端《うちわ》で、俯向《うつむ》き勝《がち》で、豆腐屋《とうふや》も
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