、八百屋《やほや》も默《だま》つて通《とほ》る。風俗《ふうぞく》も派手《はで》でない、女《をんな》の好《このみ》も濃厚《のうこう》ではない、髮《かみ》の飾《かざり》も赤《あか》いものは少《すく》なく、皆《みな》心《こゝろ》するともなく、風土《ふうど》の喪《も》に服《ふく》して居《ゐ》るのであらう。
 元來《ぐわんらい》岸《きし》の柳《やなぎ》の根《ね》は、家々《いへ/\》の根太《ねだ》よりも高《たか》いのであるから、破風《はふ》の上《うへ》で、切々《きれ/″\》に、蛙《かはづ》が鳴《な》くのも、欄干《らんかん》の壞《くづ》れた、板《いた》のはなれ/″\な、杭《くひ》の拔《ぬ》けた三角形《さんかくけい》の橋《はし》の上《うへ》に蘆《あし》が茂《しげ》つて、蟲《むし》がすだくのも、船蟲《ふなむし》が群《むら》がつて往來《わうらい》を驅《か》けまはるのも、工場《こうぢやう》の煙突《えんとつ》の烟《けむり》が遙《はる》かに見《み》えるのも、洲崎《すさき》へ通《かよ》ふ車《くるま》の音《おと》がかたまつて響《ひゞ》くのも、二日《ふつか》おき三日《みつか》置《お》きに思出《おもひだ》したやうに巡査《じゆんさ》が入《はひ》るのも、けたゝましく郵便脚夫《いうびんきやくふ》が走込《はしりこ》むのも、烏《からす》が鳴《な》くのも、皆《みな》何《なん》となく土地《とち》の末路《まつろ》を示《しめ》す、滅亡《めつばう》の兆《てう》であるらしい。
 けれども、滅《ほろ》びるといつて、敢《あへ》て此《こ》の部落《ぶらく》が無《な》くなるといふ意味《いみ》ではない、衰《おとろ》へるといふ意味《いみ》ではない、人《ひと》と家《いへ》とは榮《さか》えるので、進歩《しんぽ》するので、繁昌《はんじやう》するので、やがて其《その》電柱《でんちう》は眞直《まつすぐ》になり、鋼線《はりがね》は張《はり》を持《も》ち、橋《はし》がペンキ塗《ぬり》になつて、黒塀《くろべい》が煉瓦《れんぐわ》に換《かは》ると、蛙《かはづ》、船蟲《ふなむし》、そんなものは、不殘《のこらず》石灰《いしばひ》で殺《ころ》されよう。即《すなは》ち人《ひと》と家《いへ》とは、榮《さか》えるので、恁《かゝ》る景色《けしき》の俤《おもかげ》がなくならうとする、其《そ》の末路《まつろ》を示《しめ》して、滅亡《めつばう》の兆《てう》を表《あら》はすので、詮《せん》ずるに、蛇《へび》は進《すゝ》んで衣《ころも》を脱《ぬ》ぎ、蝉《せみ》は榮《さか》えて殼《から》を棄《す》てる、人《ひと》と家《いへ》とが、皆《みな》他《た》の光榮《くわうえい》あり、便利《べんり》あり、利益《りえき》ある方面《はうめん》に向《むか》つて脱出《ぬけだ》した跡《あと》には、此《この》地《ち》のかゝる俤《おもかげ》が、空蝉《うつせみ》になり脱殼《ぬけがら》になつて了《しま》ふのである。
 敢《あへ》て未來《みらい》のことはいはず、現在《げんざい》既《すで》に其《そ》の姿《すがた》になつて居《ゐ》るのではないか、脱《ぬ》け出《だ》した或者《あるもの》は、鳴《な》き、且《か》つ飛《と》び、或者《あるもの》は、走《はし》り、且《か》つ食《くら》ふ、けれども衣《きぬ》を脱《ぬ》いで出《で》た蛇《へび》は、殘《のこ》した殼《から》より、必《かなら》ずしも美《うつく》しいものとはいはれない。
 あゝ、まぼろしのなつかしい、空蝉《うつせみ》のかやうな風土《ふうど》は、却《かへ》つてうつくしいものを産《さん》するのか、柳屋《やなぎや》に艶麗《あでやか》な姿《すがた》が見《み》える。
 與吉《よきち》は父親《ちゝおや》に命《めい》ぜられて、心《こゝろ》に留《と》めて出《で》たから、岸《きし》に上《あが》ると、思《おも》ふともなしに豆腐屋《とうふや》に目《め》を注《そゝ》いだ。
 柳屋《やなぎや》は淺間《あさま》な住居《すまひ》、上框《あがりがまち》を背後《うしろ》にして、見通《みとほし》の四疊半《よでふはん》の片端《かたはし》に、隣家《となり》で帳合《ちやうあひ》をする番頭《ばんとう》と同一《おなじ》あたりの、柱《はしら》に凭《もた》れ、袖《そで》をば胸《むね》のあたりで引《ひ》き合《あ》はせて、浴衣《ゆかた》の袂《たもと》を折返《をりかへ》して、寢床《ねどこ》の上《うへ》に坐《すわ》つた膝《ひざ》に掻卷《かいまき》を懸《か》けて居《ゐ》る。背《うしろ》には綿《わた》の厚《あつ》い、ふつくりした、竪縞《たてじま》のちやん/\を着《き》た、鬱金木綿《うこんもめん》の裏《うら》が見《み》えて襟脚《えりあし》が雪《ゆき》のやう、艶氣《つやけ》のない、赤熊《しやぐま》のやうな、ばさ/\した、餘《あま》るほどあるのを天神《てんじん》に結《ゆ》つて、淺黄《あさぎ》の角
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