絞《つのしぼり》の手絡《てがら》を弛《ゆる》う大《おほ》きくかけたが、病氣《びやうき》であらう、弱々《よわ/\》とした後姿《うしろすがた》。
 見透《みとほし》の裏《うら》は小庭《こには》もなく、すぐ隣屋《となり》の物置《ものおき》で、此處《こゝ》にも犇々《ひし/\》と材木《ざいもく》が建重《たてかさ》ねてあるから、薄暗《うすぐら》い中《なか》に、鮮麗《あざやか》な其《その》淺黄《あさぎ》の手絡《てがら》と片頬《かたほ》の白《しろ》いのとが、拭込《ふきこ》むだ柱《はしら》に映《うつ》つて、ト見《み》ると露草《つゆぐさ》が咲《さ》いたやうで、果敢《はか》なくも綺麗《きれい》である。
 與吉《よきち》はよくも見《み》ず、通《とほ》りがかりに、
「今日《こんにち》は、」と、聲《こゑ》を掛《か》けたが、フト引戻《ひきもど》さるゝやうにして覗《のぞ》いて見《み》た、心着《こゝろづ》くと、自分《じぶん》が挨拶《あいさつ》したつもりの婦人《をんな》はこの人《ひと》ではない。

        四

「居《ゐ》ない。」と呟《つぶや》くが如《ごと》くにいつて、其《その》まゝ通拔《とほりぬ》けようとする。
 ト日《ひ》があたつて暖《あた》たかさうな、明《あかる》い腰障子《こししやうじ》の内《うち》に、前刻《さつき》から靜《しづ》かに水《みづ》を掻※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]《かきまは》す氣勢《けはひ》がして居《ゐ》たが、ばつたりといつて、下駄《げた》の音《おと》。
「與吉《よきち》さん、仕事《しごと》にかい。」
 と婀娜《あだ》たる聲《こゑ》、障子《しやうじ》を開《あ》けて顏《かほ》を出《だ》した、水色《みづいろ》の唐縮緬《たうちりめん》を引裂《ひつさ》いたまゝの襷《たすき》、玉《たま》のやうな腕《かひな》もあらはに、蜘蛛《くも》の圍《ゐ》を絞《しぼ》つた浴衣《ゆかた》、帶《おび》は占《し》めず、細紐《ほそひも》の態《なり》で裾《すそ》を端折《はしよ》つて、布《ぬの》の純白《じゆんぱく》なのを、短《みじ》かく脛《はぎ》に掛《か》けて甲斐々々《かひ/″\》しい。
 齒《は》を染《そ》めた、面長《おもなが》の、目鼻立《めはなだち》はつきりとした、眉《まゆ》は落《おと》さぬ、束《たば》ね髮《がみ》の中年増《ちうどしま》、喜藏《きざう》の女房《にようばう》で、お品《しな》といふ。
 濡《ぬ》れた手《て》を間近《まぢか》な柳《やなぎ》の幹《みき》にかけて半身《はんしん》を出《だ》した、お品《しな》は與吉《よきち》を見《み》て微笑《ほゝゑ》むだ。
 土間《どま》は一面《いちめん》の日《ひ》あたりで、盤臺《はんだい》、桶《をけ》、布巾《ふきん》など、ありつたけのもの皆《みな》濡《ぬ》れたのに、薄《うす》く陽炎《かげろふ》のやうなのが立籠《たちこ》めて、豆腐《とうふ》がどんよりとして沈《しづ》んだ、新木《あらき》の大桶《おほをけ》の水《みづ》の色《いろ》は、薄《うす》ら蒼《あを》く、柳《やなぎ》の影《かげ》が映《うつ》つて居《ゐ》る。
「晩方《ばんがた》又《また》來《く》るんだ。」
 お品《しな》は莞爾《につこり》しながら、
「難有《ありがた》う存《ぞん》じます、」故《わざ》と慇懃《いんぎん》にいつた。
 つか/\と行懸《ゆきか》けた與吉《よきち》は、これを聞《き》くと、あまり自分《じぶん》の素氣《そつけ》なかつたのに氣《き》がついたか、小戻《こもど》りして眞顏《まがほ》で、眼《め》を一《ひと》ツ瞬《しばだた》いて、
「えゝ、毎度《まいど》難有《ありがた》う存《ぞん》じます。」と、罪《つみ》のない口《くち》の利《き》きやうである。
「ほゝゝ、何《なに》をいつてるのさ。」
「何《なに》がよ。」
「だつてお前樣《まへさん》はお客樣《きやくさま》ぢやあないかね、お客樣《きやくさま》なら私《わたし》ン處《ところ》の旦那《だんな》だね、ですから、あの、毎度《まいど》難有《ありがた》う存《ぞん》じます。」と柳《やなぎ》に手《て》を縋《すが》つて半身《はんしん》を伸出《のびで》たまゝ、胸《むね》と顏《かほ》を斜《なゝ》めにして、與吉《よきち》の顏《かほ》を差覗《さしのぞ》く。
 與吉《よきち》は極《きまり》の惡《わる》さうな趣《おもむき》で、
「お客樣《きやくさま》だつて、あの、私《わたし》は木挽《こびき》の小僧《こぞう》だもの。」
 と手眞似《てまね》で見《み》せた、與吉《よきち》は兩手《りやうて》を突出《つきだ》してぐつと引《ひ》いた。
「かうやつて、かう挽《ひ》いてるんだぜ、木挽《こびき》の小僧《こぞう》だぜ。お前樣《まへさん》はおかみさんだらう、柳屋《やなぎや》のおかみさんぢやねえか、それ見《み》ねえ、此方《こつち》でお辭儀《じぎ》をしなけりやな
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