を渡《わた》ると、岸《きし》から板《いた》を渡《わた》した船《ふね》がある、板《いた》を渡《わた》つて、苫《とま》の中《なか》へ出入《でいり》をするので、此《この》船《ふね》が與吉《よきち》の住居《すまひ》。で干潮《かんてう》の時《とき》は見《み》るも哀《あはれ》で、宛然《さながら》洪水《でみづ》のあとの如《ごと》く、何時《いつ》棄《す》てた世帶道具《しよたいだうぐ》やら、缺擂鉢《かけすりばち》が黒《くろ》く沈《しづ》むで、蓬《おどろ》のやうな水草《みづくさ》は波《なみ》の隨意《まに/\》靡《なび》いて居《ゐ》る。この水草《みづくさ》はまた年《とし》久《ひさ》しく、船《ふね》の底《そこ》、舷《ふなばた》に搦《から》み附《つ》いて、恰《あたか》も巖《いはほ》に苔蒸《こけむ》したかのやう、與吉《よきち》の家《いへ》をしつかりと結《ゆは》へて放《はな》しさうにもしないが、大川《おほかは》から汐《しほ》がさして來《く》れば、岸《きし》に茂《しげ》つた柳《やなぎ》の枝《えだ》が水《みづ》に潛《くゞ》り、泥《どろ》だらけな笹《さゝ》の葉《は》がぴた/\と洗《あら》はれて、底《そこ》が見《み》えなくなり、水草《みづくさ》の隱《かく》れるに從《したが》うて、船《ふね》が浮上《うきあが》ると、堤防《ていばう》の遠方《をちかた》にすく/\立《た》つて白《しろ》い煙《けむり》を吐《は》く此處彼處《こゝかしこ》の富家《ふか》の煙突《えんとつ》が低《ひく》くなつて、水底《みづそこ》の其《そ》の缺擂鉢《かけすりばち》、塵芥《ちりあくた》、襤褸切《ぼろぎれ》、釘《くぎ》の折《をれ》などは不殘《のこらず》形《かたち》を消《け》して、蒼《あを》い潮《しほ》を滿々《まん/\》と湛《たゝ》へた溜池《ためいけ》の小波《さゝなみ》の上《うへ》なる家《いへ》は、掃除《さうぢ》をするでもなしに美《うつく》しい。
 爾時《そのとき》は船《ふね》から陸《りく》へ渡《わた》した板《いた》が眞直《まつすぐ》になる。これを渡《わた》つて、今朝《けさ》は殆《ほとん》ど滿潮《まんてう》だつたから、與吉《よきち》は柳《やなぎ》の中《なか》で※[#「火+發」、692−5]《ぱつ》と旭《あさひ》がさす、黄金《こがね》のやうな光線《くわうせん》に、其《その》罪《つみ》のない顏《かほ》を照《て》らされて仕事《しごと》に出《で》た。

        二

 其《それ》から日《ひ》一|日《にち》おなじことをして働《はたら》いて、黄昏《たそがれ》かゝると日《ひ》が舂《うすづ》き、柳《やなぎ》の葉《は》が力《ちから》なく低《た》れて水《みづ》が暗《くら》うなると汐《しほ》が退《ひ》く、船《ふね》が沈《しづ》むで、板《いた》が斜《なゝ》めになるのを渡《わた》つて家《いへ》に歸《かへ》るので。
 留守《るす》には、年寄《としよ》つた腰《こし》の立《た》たない與吉《よきち》の爺々《ちやん》が一人《ひとり》で寢《ね》て居《ゐ》るが、老後《らうご》の病《やまひ》で次第《しだい》に弱《よわ》るのであるから、急《きふ》に容體《ようだい》の變《かは》るといふ憂慮《きづかひ》はないけれども、與吉《よきち》は雇《やと》はれ先《さき》で晝飯《ひるめし》をまかなはれては、小休《こやすみ》の間《あひだ》に毎日《まいにち》一|度《ど》づつ、見舞《みまひ》に歸《かへ》るのが例《れい》であつた。
「ぢやあ行《い》つて來《く》るぜ、父爺《ちやん》。」
 與平《よへい》といふ親仁《おやぢ》は、涅槃《ねはん》に入《い》つたやうな形《かたち》で、胴《どう》の間《ま》に寢《ね》ながら、佛造《ほとけづく》つた額《ひたひ》を上《あ》げて、汗《あせ》だらけだけれども目《め》の涼《すゞ》しい、息子《せがれ》が地藏眉《ぢざうまゆ》の、愛《あい》くるしい、若《わか》い顏《かほ》を見《み》て、嬉《うれ》しさうに頷《うなづ》いて、
「晩《ばん》にや又《また》柳屋《やなぎや》の豆腐《とうふ》にしてくんねえよ。」
「あい、」といつて苫《とま》を潛《くゞ》つて這《は》ふやうにして船《ふね》から出《で》た、與吉《よきち》はづツと立《た》つて板《いた》を渡《わた》つた。向《むか》うて筋違《すぢつかひ》、角《かど》から二|軒目《けんめ》に小《ちひ》さな柳《やなぎ》の樹《き》が一|本《ぽん》、其《そ》の低《ひく》い枝《えだ》のしなやかに垂《た》れた葉隱《はがく》れに、一|間口《けんぐち》二|枚《まい》の腰障子《こししやうじ》があつて、一|枚《まい》には假名《かな》、一|枚《まい》には眞名《まな》で豆腐《とうふ》と書《か》いてある。柳《やなぎ》の葉《は》の翠《みどり》を透《す》かして、障子《しやうじ》の紙《かみ》は新《あた》らしく白《しろ》いが、秋《あき》が近《ちか》いから
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