又《また》この偉大《ゐだい》なる樟《くす》の殆《ほとん》ど神聖《しんせい》に感《かん》じらるゝばかりな巨材《きよざい》を仰《あふ》ぐ。
高《たか》い屋根《やね》は、森閑《しんかん》として日中《ひなか》薄暗《うすぐら》い中《なか》に、ほの/″\と見《み》える材木《ざいもく》から又《また》ぱら/\と、ぱら/\と、其處《そこ》ともなく、鋸《のこぎり》の屑《くづ》が溢《こぼ》れて落《お》ちるのを、思《おも》はず耳《みゝ》を澄《す》まして聞《き》いた。中央《ちうあう》の木目《もくめ》から渦《うづま》いて出《で》るのが、池《いけ》の小波《さゝなみ》のひた/\と寄《よ》する音《おと》の中《なか》に、隣《となり》の納屋《なや》の石《いし》を切《き》る響《ひゞき》に交《まじ》つて、繁《しげ》つた葉《は》と葉《は》が擦合《すれあ》ふやうで、たとへば時雨《しぐれ》の降《ふ》るやうで、又《また》無數《むすう》の山蟻《やまあり》が谷《たに》の中《なか》を歩行《ある》く跫音《あしおと》のやうである。
與吉《よきち》はとみかうみて、肩《かた》のあたり、胸《むね》のあたり、膝《ひざ》の上《うへ》、跪《ひざまづ》いてる足《あし》の間《あひだ》に落溜《おちたま》つた、堆《うづたか》い、木屑《きくづ》の積《つも》つたのを、樟《くすのき》の血《ち》でないかと思《おも》つてゾツとした。
今《いま》まで其《その》上《うへ》について暖《あたゝか》だつた膝頭《ひざがしら》が冷々《ひや/\》とする、身體《からだ》が濡《ぬ》れはせぬかと疑《うたが》つて、彼處此處《あちこち》袖《そで》襟《えり》を手《て》で拊《はた》いて見《み》た。仕事最中《しごとさいちう》、こんな心持《こゝろもち》のしたことは始《はじ》めてである。
與吉《よきち》は、一人《ひとり》谷《たに》のドン底《ぞこ》に居《ゐ》るやうで、心細《こゝろぼそ》くなつたから、見透《みす》かす如《ごと》く日《ひ》の光《ひかり》を仰《あふ》いだ。薄《うす》い光線《くわうせん》が屋根板《やねいた》の合目《あはせめ》から洩《も》れて、幽《かす》かに樟《くす》に映《うつ》つたが、巨大《きよだい》なるこの材木《ざいもく》は唯《たゞ》單《たん》に三尺角《さんじやくかく》のみのものではなかつた。
與吉《よきち》は天日《てんぴ》を蔽《おほ》ふ、葉《は》の茂《しげ》つた五抱《いつかゝへ》もあらうといふ幹《みき》に注連繩《しめなは》を張《は》つた樟《くすのき》の大樹《だいじゆ》の根《ね》に、恰《あたか》も山《やま》の端《は》と思《おも》ふ處《ところ》に、しツきりなく降《ふ》りかゝる翠《みどり》の葉《は》の中《なか》に、落《お》ちて落《お》ち重《かさ》なる葉《は》の上《うへ》に、あたりは眞暗《まつくら》な處《ところ》に、蟲《むし》よりも小《ちひさ》な身體《からだ》で、この大木《たいぼく》の恰《あたか》も其《そ》の注連繩《しめなは》の下《した》あたりに鋸《のこぎり》を突《つき》さして居《ゐ》るのに心着《こゝろづ》いて、恍惚《うつとり》として目《め》を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》つたが、氣《き》が遠《とほ》くなるやうだから、鋸《のこぎり》を拔《ぬ》かうとすると、支《つか》へて、堅《かた》く食入《くひい》つて、微《かす》かにも動《うご》かぬので、はツと思《おも》ふと、谷々《たに/″\》、峰々《みね/\》、一陣《いちぢん》轟《ぐわう》!と渡《わた》る風《かぜ》の音《おと》に吃驚《びつくり》して、數千仞《すうせんじん》の谷底《たにそこ》へ、眞倒《まつさかさま》に落《お》ちたと思《おも》つて、小屋《こや》の中《なか》から轉《ころ》がり出《だ》した。
「大變《たいへん》だ、大變《たいへん》だ。」
「あれ! お聞《き》き、」と涙聲《なみだごゑ》で、枕《まくら》も上《あが》らぬ寢床《ねどこ》の上《うへ》の露草《つゆくさ》の、がツくりとして仰向《あをむ》けの淋《さびし》い素顏《すがほ》に紅《べに》を含《ふく》んだ、白《しろ》い頬《ほゝ》に、蒼《あを》みのさした、うつくしい、妹《いもうと》の、ばさ/\した天神髷《てんじんまげ》の崩《くづ》れたのに、淺黄《あさぎ》の手絡《てがら》が解《と》けかゝつて、透通《すきとほ》るやうに眞白《まつしろ》で細《ほそ》い頸《うなじ》を、膝《ひざ》の上《うへ》に抱《だ》いて、抱占《かゝへし》めながら、頬摺《ほゝずり》していつた。お品《しな》が片手《かたて》にはしつかりと前刻《さつき》の手紙《てがみ》を握《にぎ》つて居《ゐ》る。
「ねえ、ねえ、お聞《き》きよ、あれ、柳《りう》ちやん――柳《りう》ちやん――しつかりおし。お手紙《てがみ》にも、そこらの材木《ざいもく》に枝葉《えだは》がさかえるやうなことがあつたら、夫婦
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