なぎ》は皆《みな》短《ひく》い、土手《どて》の松《まつ》はいふまでもない、遙《はるか》に見《み》える其《その》梢《こずゑ》は殆《ほとん》ど水面《すゐめん》と並《なら》んで居《ゐ》る。
 然《しか》も猶《なほ》これは眞直《まつすぐ》に眞四角《ましかく》に切《きつ》たもので、およそ恁《かゝ》る角《かく》の材木《ざいもく》を得《え》ようといふには、杣《そま》が八|人《にん》五日《いつか》あまりも懸《かゝ》らねばならぬと聞《き》く。
 那《そん》な大木《たいぼく》のあるのは蓋《けだ》し深山《しんざん》であらう、幽谷《いうこく》でなければならぬ。殊《こと》にこれは飛騨山《ひだやま》から※[#「えんにょう+囘」、第4水準2−12−11]《まは》して來《き》たのであることを聞《き》いて居《ゐ》た。
 枝《えだ》は蔓《はびこ》つて、谷《たに》に亙《わた》り、葉《は》は茂《しげ》つて峰《みね》を蔽《おほ》ひ、根《ね》はたゞ一山《ひとやま》を絡《まと》つて居《ゐ》たらう。
 其《その》時《とき》は、其《その》下蔭《したかげ》は矢張《やつぱり》こんなに暗《くら》かつたが、蒼空《あをぞら》に日《ひ》の照《て》る時《とき》も、と然《さ》う思《おも》つて、根際《ねぎは》に居《ゐ》た黒《くろ》い半被《はつぴ》を被《き》た、可愛《かはい》い顏《かほ》の、小《ちひ》さな蟻《あり》のやうなものが、偉大《ゐだい》なる材木《ざいもく》を仰《あふ》いだ時《とき》は、手足《てあし》を縮《ちゞ》めてぞつとしたが、
(父親《ちやん》は何《ど》うしてるだらう、)と考《かんが》へついた。
 鋸《のこぎり》は又《また》動《うご》いて、
(左樣《さう》だ、今頃《いまごろ》は彌六《やろく》親仁《おやぢ》がいつもの通《とほり》、筏《いかだ》を流《なが》して來《き》て、あの、船《ふね》の傍《そば》を漕《こ》いで通《とほ》りすがりに、父上《ちやん》に聲《こゑ》をかけてくれる時分《じぶん》だ、)
 と思《おも》はず振向《ふりむ》いて池《いけ》の方《はう》、うしろの水《みづ》を見返《みかへ》つた。
 溜池《ためいけ》の眞中《まんなか》あたりを、頬冠《ほゝかむり》した、色《いろ》のあせた半被《はつぴ》を着《き》た、脊《せい》の低《ひく》い親仁《おやぢ》が、腰《こし》を曲《ま》げ、足《あし》を突張《つツぱ》つて、長《なが》い棹《さを》を繰《あやつ》つて、畫《ゑ》の如《ごと》く漕《こ》いで來《く》る、筏《いかだ》は恰《あたか》も人《ひと》を乘《の》せて、油《あぶら》の上《うへ》を辷《すべ》るやう。
 する/\と向《むか》うへ流《なが》れて、横《よこ》ざまに近《ちか》づいた、細《ほそ》い黒《くろ》い毛脛《けずね》を掠《かす》めて、蒼《あを》い水《みづ》の上《うへ》を鴎《かもめ》が弓形《ゆみなり》に大《おほ》きく鮮《あざや》かに飛《と》んだ。

        十

「與太坊《よたばう》、父爺《ちやん》は何事《なにごと》もねえよ。」と、池《いけ》の眞中《まんなか》から聲《こゑ》を懸《か》けて、おやぢは小屋《こや》の中《なか》を覗《のぞ》かうともせず、爪《つま》さきは小波《さゝなみ》を浴《あ》ぶるばかり沈《しづ》むだ筏《いかだ》を棹《さを》さして、此《この》時《とき》また中空《なかぞら》から白《しろ》い翼《つばさ》を飜《ひるがへ》して、ひら/\と落《おと》して來《き》て、水《みづ》に姿《すがた》を宿《やど》したと思《おも》ふと、向《むか》うへ飛《と》んで、鴎《かもめ》の去《さ》つた方《かた》へ、すら/\と流《なが》して行《ゆ》く。
 これは彌六《やろく》といつて、與吉《よきち》の父翁《ちゝおや》が年來《ねんらい》の友達《ともだち》で、孝行《かうかう》な兒《こ》が仕事《しごと》をしながら、病人《びやうにん》を案《あん》じて居《ゐ》るのを知《し》つて居《ゐ》るから、例《れい》として毎日《まいにち》今時分《いまじぶん》通《とほ》りがかりに其《その》消息《せうそく》を傳《つた》へるのである。與吉《よきち》は安堵《あんど》して又《また》仕事《しごと》にかゝつた。
(父親《ちやん》は何事《なにごと》もないが、何故《なぜ》魚《さかな》を喰《た》べないのだらう。左樣《さう》だ、刺身《さしみ》は一|寸《すん》だめしで、鱠《なます》はぶつぶつ切《ぎり》だ、魚《うを》の煮《に》たのは、食《た》べると肉《にく》がからみついたまゝ頭《あたま》に繋《つなが》つて、骨《ほね》が殘《のこ》る、彼《あ》の皿《さら》の中《なか》の死骸《しがい》に何《ど》うして箸《はし》がつけられようといつて身震《みぶるひ》をする、まつたくだ。そして魚《さかな》ばかりではない、柳《やなぎ》の葉《は》も食切《くひき》ると痛《いた》むのだ、)と思《おも》ひ/\、
前へ 次へ
全12ページ中10ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング