頬《かたほ》に笑《ゑみ》を含《ふく》むで、堪《たま》らないといつたやうな聲《こゑ》で、
「柳《りう》ちやん、來《き》たよ!」といふが疾《はや》いか、横《よこ》ざまに驅《か》けて入《い》る、柳腰《やなぎごし》、下駄《げた》が脱《ぬ》げて、足《あし》の裏《うら》が美《うつく》しい。

        八

 與吉《よきち》が仕事場《しごとば》の小屋《こや》に入《はひ》ると、例《れい》の如《ごと》く、直《す》ぐ其《その》まゝ材木《ざいもく》の前《まへ》に跪《ひざまづ》いて、鋸《のこぎり》の柄《え》に手《て》を懸《か》けた時《とき》、配達夫《はいたつふ》は、此處《こゝ》の前《まへ》を横切《よこぎ》つて、身《み》を斜《なゝめ》に、波《なみ》に搖《ゆ》られて流《なが》るゝやうな足取《あしどり》で、走《はし》り去《さ》つた。
 與吉《よきち》は見《み》も遣《や》らず、傍目《わきめ》も觸《ふ》らないで挽《ひ》きはじめる。
 巨大《きよだい》なる此《こ》の樟《くすのき》を濡《ぬ》らさないために、板屋根《いたやね》を葺《ふ》いた、小屋《こや》の高《たか》さは十|丈《ぢやう》もあらう、脚《あし》の着《つ》いた臺《だい》に寄《よ》せかけたのが突立《つツた》つて、殆《ほとん》ど屋根裏《やねうら》に屆《とゞ》くばかり。この根際《ねぎは》に膝《ひざ》をついて、伸上《のびあが》つては挽《ひ》き下《お》ろし、伸上《のびあが》つては挽《ひ》き下《お》ろす、大鋸《おほのこぎり》の齒《は》は上下《うへした》にあらはれて、兩手《りやうて》をかけた與吉《よきち》の姿《すがた》は、鋸《のこぎり》よりも小《ちひ》さいかのやう。
 小屋《こや》の中《うち》には單《たゞ》こればかりでなく、兩傍《りやうわき》に堆《うづたか》く偉大《ゐだい》な材木《ざいもく》を積《つ》んであるが、其《そ》の嵩《かさ》は與吉《よきち》の丈《たけ》より高《たか》いので、纔《わづか》に鋸屑《おがくづ》の降積《ふりつも》つた上《うへ》に、小《ちひ》さな身體《からだ》一《ひと》ツ入《い》れるより他《ほか》に餘地《よち》はない。で恰《あたか》も材木《ざいもく》の穴《あな》の底《そこ》に跪《ひざまづ》いてるに過《す》ぎないのである。
 背後《うしろ》は突拔《つきぬ》けの岸《きし》で、こゝにも地《つち》と一面《いちめん》な水《みづ》が蒼《あを》く澄《す》むで、ひた/\と小波《さゝなみ》の畝《うねり》が絶《た》えず間近《まぢか》う來《く》る。往來傍《わうらいばた》には又《また》岸《きし》に臨《のぞ》むで、果《はて》しなく組違《くみちが》へた材木《ざいもく》が並《なら》べてあるが、二十三十づゝ、四《よ》ツ目形《めなり》に、井筒形《ゐづつがた》に、規律《きりつ》正《たゞ》しく、一定《いつてい》した距離《きより》を置《お》いて、何處《どこ》までも續《つゞ》いて居《ゐ》る、四《よ》ツ目《め》の間《あひだ》を、井筒《ゐづつ》の彼方《かなた》を、見《み》え隱《かく》れに、ちらほら人《ひと》が通《とほ》るが、皆《みな》默《だま》つて歩行《ある》いて居《ゐ》るので。
 淋《さみし》い、森《しん》とした中《なか》に手拍子《てびやうし》が揃《そろ》つて、コツ/\コツ/\と、鐵槌《かなづち》の音《おと》のするのは、この小屋《こや》に並《なら》んだ、一棟《ひとむね》、同一《おなじ》材木納屋《ざいもくなや》の中《なか》で、三|個《こ》の石屋《いしや》が、石《いし》を鑿《き》るのである。
 板圍《いたがこひ》をして、横《よこ》に長《なが》い、屋根《やね》の低《ひく》い、濕《しめ》つた暗《くら》い中《なか》で、働《はたら》いて居《ゐ》るので、三|人《にん》の石屋《いしや》も齊《ひと》しく南屋《みなみや》に雇《やと》はれて居《ゐ》るのだけれども、渠等《かれら》は與吉《よきち》のやうなのではない、大工《だいく》と一所《いつしよ》に、南屋《みなみや》の普請《ふしん》に懸《かゝ》つて居《ゐ》るので、ちやうど與吉《よきち》の小屋《こや》と往來《わうらい》を隔《へだ》てた眞向《まむか》うに、小《ちひ》さな普請小屋《ふしんごや》が、眞新《まあたらし》い、節穴《ふしあな》だらけな、薄板《うすいた》で建《た》つて居《ゐ》る、三方《さんぱう》が圍《かこ》つたばかり、編《あ》むで繋《つな》いだ繩《なは》も見《み》え、一杯《いつぱい》の日當《ひあたり》で、いきなり土《つち》の上《うへ》へ白木《しらき》の卓子《テエブル》を一|脚《きやく》据《す》ゑた、其《その》上《うへ》には大土瓶《おほどびん》が一|個《こ》、茶呑茶碗《ちやのみぢやわん》が七個《なゝつ》八個《やつ》。
 後《うしろ》に置《お》いた腰掛臺《こしかけだい》の上《うへ》に、一人《ひとり》は匍匐《はらばひ》にな
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