した。
(やあい、井戸側が風で飛ばい。)か、何か、哄《どっ》と吶喊《とき》を上げて、小児が皆《みんな》それを追懸けて、一団《ひとかたまり》に黒くなって駆出すと、その反対の方へ、誰にも見着けられないで、澄まして、すっと行ったと云うが、どうだ、これも変だろう。
 横手の土塀際の、あの棕櫚《しゅろ》の樹の、ばらばらと葉が鳴る蔭へ入って、黙って背《せなか》を撫《な》でなぞしてな。
 そこで言聞かされたと云うんだ。
(今に火事がありますから、早く家《うち》へお帰んなさい、先生にそう云って。でも学校の教師さん、そんな事がありますかッて肯《き》きなさらないかも知れません。黙ってずんずん帰って可《よ》うござんす。怪我《けが》には替えられません。けれども、後で叱られると不可《いけ》ませんから、なりたけお許しをうけてからになさいましよ。
 時刻はまだ大丈夫だとは思いますが、そんな、こんなで帰りが遅れて、途中、もしもの事があったら、これをめしあがれよ。そうすると烟《けむ》に捲《ま》かれませんから。)
 とそう云ってな。……そこで、袂《たもと》から紙包みのを出して懐中《ふところ》へ入れて、圧《おさ》えて、こう抱寄せるようにして、そして襟を掻合《かきあわ》せてくれたのが、その茱萸《ぐみ》なんだ。
(私がついていられると可《い》いんだけれど、姉さんは、今日は大事な日ですから。)
 と云う中《うち》にも、風のなぐれで、すっと黒髪を吹いて、まるで顔が隠れるまで、むらむらと懸《かか》る、と黒雲が走るようで、はらりと吹分ける、と月が出たように白い頬が見えたと云う……
 けれども、見えもせぬ火事があると、そんな事は先生には言憎《いいにく》い、と宮浜が頭《かぶり》を振ったそうだ。
(では、浪ちゃんは、教師さんのおっしゃる事と、私の言う事と、どっちをほんとうだと思います。――)
 こりゃ小児《こども》に返事が出来なかったそうだが、そうだろう……なあ、無理はない、源助。
(先生のお言《ことば》に嘘はありません。けれども私の言う事はほんとうです……今度の火事も私の気でどうにもなる。――私があるものに身を任せれば、火は燃えません。そのものが、思《おもい》の叶《かな》わない仇《あだ》に、私が心一つから、沢山の家も、人も、なくなるように面当《つらあ》てにしますんだから。
 まあ、これだって、浪ちゃんが先生にお聞きなさ
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