し婦人《おんな》は蒼白《あおじろ》き顔をわずかに擡《もた》げて、
「ええ、もう知りませんよう!」
 酷《むご》くも袂《たもと》を振払いて、再び自家《おのれ》の苦悩に悶《もだ》えつ。盲人《めしい》はこの一喝《いっかつ》に挫《ひし》がれて、頸《くび》を竦《すく》め、肩を窄《すぼ》めて、
「はい、はい、はい。」

         中

 甲板《デッキ》より帰来《かえりきた》れる一個の学生は、室《しつ》に入《い》るよりその溽熱《むしあつさ》に辟易《へきえき》して、
「こりゃ劇《ひど》い!」と眉を顰《ひそ》めて四辺《あたり》を※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまわ》せり。
 狼藉《ろうぜき》に遭《あ》えりし死骸《むくろ》の棄《す》てられたらむように、婦女等《おんなたち》は算《さん》を乱して手荷物の間に横《よこた》われり。
「やあ、やあ! 惨憺《さんたん》たるものだ。」
 渠《かれ》はこの惨憺《みじめ》さと溽熱《むしあつ》さとに面《おもて》を皺《しわ》めつつ、手荷物の鞄《かばん》の中《うち》より何やらん取出《とりいだ》して、忙々《いそがわしく》立去らむとしたりしが、たちまち左右を顧《かえりみ》て、
「皆様《みなさん》、これじゃ耐《たま》らん。ちと甲板《かんぱん》へお出《い》でなさい。涼しくッてどんなに心地《こころもち》が快《いい》か知れん。」
 これ空谷《くうこく》の跫音《きょうおん》なり。盲人《めいし》は急遽《いそいそ》声する方《かた》に這寄《はいよ》りぬ。
「もし旦那様、何ともはや誠《まこと》に申兼《もうしか》ねましてございますが、はい、小用場《こようば》へはどちらへ参りますでございますか、どうぞ、はい。……」
 盲人《めしい》は数多《あまたたび》渠《かれ》の足下に叩頭《ぬかづ》きたり。
 学生は渠《かれ》が余りに礼の厚きを訝《いぶか》りて、
「うむ、便所かい。」とその風体《ふうてい》を眺めたりしが、
「ああ、お前|様《さん》不自由なんだね。」
 かくと聞くより、盲人《めしい》は飛立つばかりに懽《よろこ》びぬ。
「はい、はい。不自由で、もう難儀をいたします。」
「いや、そりゃ困るだろう。どれ僕が案内してあげよう。さあ、さあ、手を出した。」
「はい、はい。それはどうも、何ともはや、勿体《もったい》もない、お難有《ありがと》う存じます。ああ、南無阿弥陀仏《なむあみ
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