蛇くひ
泉鏡太郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)西《にし》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)十|里《り》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)爆※[#「火+發」、110−5]《ぱツ/\》と

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)おの/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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 西《にし》は神通川《じんつうがは》の堤防《ていばう》を以《もつ》て劃《かぎり》とし、東《ひがし》は町盡《まちはづれ》の樹林《じゆりん》境《さかひ》を爲《な》し、南《みなみ》は海《うみ》に到《いた》りて盡《つ》き、北《きた》は立山《りふざん》の麓《ふもと》に終《をは》る。此間《このあひだ》十|里《り》見通《みとほ》しの原野《げんや》にして、山水《さんすゐ》の佳景《かけい》いふべからず。其《その》川《かは》幅《はゞ》最《もつと》も廣《ひろ》く、町《まち》に最《もつと》も近《ちか》く、野《の》の稍《やゝ》狹《せま》き處《ところ》を郷《がう》屋敷田畝《やしきたんぼ》と稱《とな》へて、雲雀《ひばり》の巣獵《すあさり》、野草《のぐさ》摘《つみ》に妙《めう》なり。
 此處《こゝ》往時《むかし》北越《ほくゑつ》名代《なだい》の健兒《けんじ》、佐々《さつさ》成政《なりまさ》の別業《べつげふ》の舊跡《あと》にして、今《いま》も殘《のこ》れる築山《つきやま》は小富士《こふじ》と呼《よ》びぬ。
 傍《かたへ》に一|本《ぽん》、榎《えのき》を植《う》ゆ、年經《としふ》る大樹《たいじゆ》鬱蒼《うつさう》と繁茂《しげ》りて、晝《ひる》も梟《ふくろふ》の威《ゐ》を扶《たす》けて鴉《からす》に塒《ねぐら》を貸《か》さず、夜陰《やいん》人《ひと》靜《しづ》まりて一陣《いちぢん》の風《かぜ》枝《えだ》を拂《はら》へば、愁然《しうぜん》たる聲《こゑ》ありておうおう[#「おうおう」に傍点]と唸《うめ》くが如《ごと》し。
 されば爰《こゝ》に忌《い》むべく恐《おそ》るべきを(おう)に譬《たと》へて、假《かり》に(應《おう》)といへる一種《いつしゆ》異樣《いやう》の乞食《こつじき》ありて、郷《がう》屋敷田畝《やしきたんぼ》を徘徊《はいくわい》す。驚破《すは》「應《おう》」來《きた》れりと叫《さけ》ぶ時《とき》は、幼童《えうどう》婦女子《ふぢよし》は遁隱《にげかく》れ、孩兒《がいじ》も怖《おそ》れて夜泣《よなき》を止《とゞ》む。
「應《おう》」は普通《ふつう》の乞食《こつじき》と齊《ひと》しく、見《み》る影《かげ》もなき貧民《ひんみん》なり。頭髮《とうはつ》は婦人《をんな》のごとく長《なが》く伸《の》びたるを結《むす》ばず、肩《かた》より垂《た》れて踵《かゝと》に到《いた》る。跣足《せんそく》にて行歩《かうほ》甚《はなは》だ健《けん》なり。容顏《ようがん》隱險《いんけん》の氣《き》を帶《お》び、耳《みゝ》敏《さと》く、氣《き》鋭《するど》し。各自《おの/\》一|條《でう》の杖《つゑ》を携《たづさ》へ、續々《ぞく/\》市街《しがい》に入込《いりこ》みて、軒毎《のきごと》に食《しよく》を求《もと》め、與《あた》へざれば敢《あへ》て去《さ》らず。
 初《はじ》めは人皆《ひとみな》懊惱《うるさゝ》に堪《た》へずして、渠等《かれら》を罵《のゝし》り懲《こ》らせしに、爭《あらそ》はずして一旦《いつたん》は去《さ》れども、翌日《よくじつ》驚《おどろ》く可《べ》き報怨《しかへし》を蒙《かうむ》りてより後《のち》は、見《み》す/\米錢《べいせん》を奪《うば》はれけり。
 渠等《かれら》は己《おのれ》を拒《こば》みたる者《もの》の店前《みせさき》に集《あつま》り、或《あるひ》は戸口《とぐち》に立並《たちなら》び、御繁昌《ごはんじやう》の旦那《だんな》吝《けち》にして食《しよく》を與《あた》へず、餓《う》ゑて食《くら》ふものの何《なに》なるかを見《み》よ、と叫《さけ》びて、袂《たもと》を深《さ》ぐれば畝々《うね/\》と這出《はひい》づる蛇《くちなは》を掴《つか》みて、引斷《ひきちぎ》りては舌鼓《したうち》して咀嚼《そしやく》し、疊《たゝみ》とも言《い》はず、敷居《しきゐ》ともいはず、吐出《はきいだ》しては舐《ねぶ》る態《さま》は、ちらと見《み》るだに嘔吐《おうど》を催《もよほ》し、心弱《こゝろよわ》き婦女子《ふぢよし》は後三日《のちみつか》の食《しよく》を廢《はい》して、病《やまひ》を得《え》ざるは寡《すく》なし。
 凡《およ》そ幾百戸《いくひやくこ》の富家《ふか》、豪商《がうしやう》、一|度《ど》づゝ、此《この》復讐《しか
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