そして、雪のやうなお手の指を環《わ》に遊ばして、高い処《ところ》で、青葉の上で、虹の膚《はだ》へ嵌めるやうになさいますと、其の指に空の色が透通《すきとお》りまして、紅い玉は、颯《さっ》と夕日に映つて、まつたく虹の瞳《ひとみ》に成つて、そして晃々《きらきら》と輝きました。其の時でございます。お庭も池も、真暗《まっくら》に成つたと思ひます。虹も消えました。黒いものが、ばつと来て、目潰《めつぶ》しを打ちますやうに、翼を拡げたと思ひますと、其の指環を、奥様の手から攫《さら》ひまして、烏が飛びましたのでございます。露《つゆ》に光る木《こ》の実《み》だ、と紅《あか》い玉を、間違へたのでございませう。築山《つきやま》の松の梢《こずえ》を飛びまして、遠くも参りませんで、塀の上に、此の、野の末《すえ》の処《ところ》へ入ります、真赤な、まん円《まる》な、大きな太陽様《おひさま》の前に黒く留《と》まつたのが見えたのでございます。私《わたし》は跣足《はだし》で庭へ駈下《かけお》りました。駈《か》けつけて声を出しますと、烏は其のまゝ塀の外へ又飛びましたのでございます。丁《ちょう》ど其処《そこ》が、裏木戸《うらきど》の処《ところ》でございます。あの木戸は、私《わたし》が御奉公申しましてから、五年と申しますもの、お開《あ》け遊ばした事と云つては一度もなかつたのでございます。
紳士 うむ、あれは開《あ》けるべき木戸ではないのぢや。俺が覚えてからも、止《や》むを得ん凶事で二度だけは開《あ》けんければ成らんぢやつた。が、其とても凶事を追出《おいだ》いたばかりぢや。外から入つて来た不祥《ふしょう》はなかつた。――其が其の時、汝《きさま》の手で開《あ》いたのか。
侍女 えゝ、錠の鍵は、がつちりさゝつて居《お》りましたけれど、赤錆《あかさび》に錆切《さびき》りまして、圧《お》しますと開《あ》きました。くされて落ちたのでございます。塀の外に、散歩らしいのが一人立つて居たのでございます。其の男が、烏の嘴《くちばし》から落しました奥様の其の指環を、掌《てのひら》に載せまして、凝《じっ》と見て居ましたのでございます。
紳士 餓鬼《がっき》め、其奴《そいつ》か。
侍女 えゝ。
紳士 相手《あいて》は其奴《そいつ》ぢやな。
侍女 あの、私《わたくし》がわけを言つて、其の指環を返しますやうに申しますと、串戯《じょうだん》らしく、否《いな》、此は、人間の手を放れたもの、烏の嘴《くちばし》から受取つたのだから返されない。尤《もっと》も、烏にならば、何時《なんどき》なりとも返して上げよう――と然《そ》う申して笑ふんでございます。それでも、何《ど》うしても返しません。そして――確《たしか》に預《あずか》る、決して迂散《うさん》なものでない――と云つて、丁《ちゃん》と、衣兜《かくし》から名刺を出してくれました。奥様は、面白いね――とおつしやいました。それから日を極《き》めまして、同じ暮方《くれがた》の頃、其の男を木戸の外まで呼びましたのでございます。其の間《あいだ》に、此の、あの、烏の装束《しょうぞく》をお誂《あつら》へ遊ばしました。そして私《わたくし》がそれを着て出まして、指環を受取りますつもりなのでございましたが、なぶつて遣《や》らう、とおつしやつて、奥様が御自分に烏の装束をおめし遊ばして、塀の外へ――でも、ひよつと、野原に遊んで居る小児《こども》などが怪しい姿を見て、騒いで悪いと云ふお心付《こころづ》きから、四阿《あずまや》へお呼び入れに成りました。
紳士 奴は、あの木戸から入つたな。あの、木戸から。
侍女 男が吃驚《びっくり》するのを御覧、と私《わたくし》にお囁《ささや》きなさいました。奥様が、烏は脚《あし》では受取らない、とおつしやつて、男が掌《てのひら》にのせました指環を、此処《ここ》をお開《ひら》きなさいまして、(咽喉《のど》のあく処《ところ》を示す)口でおくはへ遊ばしたのでございます。
紳士 口でな、最《も》う其の時から。毒蛇《どくじゃ》め。上頤《うわあご》下頤《したあご》へ拳《こぶし》を引掛《ひっか》け、透通《すきとお》る歯と紅《べに》さいた唇を、めりめりと引裂《ひきさ》く、売婦《ばいた》。(足を挙げて、枯草《かれくさ》を踏蹂《ふみにじ》る。)
画工 うゝむ、(二声《ふたこえ》ばかり、夢に魘《うな》されたるものの如し。)
紳士 (はじめて心付《こころづ》く)女郎《めろう》、此方《こっち》へ来い。(杖《ステッキ》を以て一方を指《ゆびさ》す。)
侍女 (震へながら)はい。
紳士 頭《かしら》を着けろ、被《かぶ》れ。俺の前を烏のやうに躍《おど》つて行け、――飛べ。邸《やしき》を横行する黒いものの形《かた》を確《しか》と見覚えて置かねばならん。躍れ。衣兜《かくし》には短銃《ピストル
前へ
次へ
全9ページ中6ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング