らしく、否《いな》、此は、人間の手を放れたもの、烏の嘴《くちばし》から受取つたのだから返されない。尤《もっと》も、烏にならば、何時《なんどき》なりとも返して上げよう――と然《そ》う申して笑ふんでございます。それでも、何《ど》うしても返しません。そして――確《たしか》に預《あずか》る、決して迂散《うさん》なものでない――と云つて、丁《ちゃん》と、衣兜《かくし》から名刺を出してくれました。奥様は、面白いね――とおつしやいました。それから日を極《き》めまして、同じ暮方《くれがた》の頃、其の男を木戸の外まで呼びましたのでございます。其の間《あいだ》に、此の、あの、烏の装束《しょうぞく》をお誂《あつら》へ遊ばしました。そして私《わたくし》がそれを着て出まして、指環を受取りますつもりなのでございましたが、なぶつて遣《や》らう、とおつしやつて、奥様が御自分に烏の装束をおめし遊ばして、塀の外へ――でも、ひよつと、野原に遊んで居る小児《こども》などが怪しい姿を見て、騒いで悪いと云ふお心付《こころづ》きから、四阿《あずまや》へお呼び入れに成りました。
紳士 奴は、あの木戸から入つたな。あの、木戸から。
侍女 男が吃驚《びっくり》するのを御覧、と私《わたくし》にお囁《ささや》きなさいました。奥様が、烏は脚《あし》では受取らない、とおつしやつて、男が掌《てのひら》にのせました指環を、此処《ここ》をお開《ひら》きなさいまして、(咽喉《のど》のあく処《ところ》を示す)口でおくはへ遊ばしたのでございます。
紳士 口でな、最《も》う其の時から。毒蛇《どくじゃ》め。上頤《うわあご》下頤《したあご》へ拳《こぶし》を引掛《ひっか》け、透通《すきとお》る歯と紅《べに》さいた唇を、めりめりと引裂《ひきさ》く、売婦《ばいた》。(足を挙げて、枯草《かれくさ》を踏蹂《ふみにじ》る。)
画工 うゝむ、(二声《ふたこえ》ばかり、夢に魘《うな》されたるものの如し。)
紳士 (はじめて心付《こころづ》く)女郎《めろう》、此方《こっち》へ来い。(杖《ステッキ》を以て一方を指《ゆびさ》す。)
侍女 (震へながら)はい。
紳士 頭《かしら》を着けろ、被《かぶ》れ。俺の前を烏のやうに躍《おど》つて行け、――飛べ。邸《やしき》を横行する黒いものの形《かた》を確《しか》と見覚えて置かねばならん。躍れ。衣兜《かくし》には短銃《ピストル
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