います。
紳士 餓鬼《がっき》め、其奴《そいつ》か。
侍女 ええ。
紳士 相手は其奴じゃな。
侍女 あの、私《わたくし》がわけを言って、その指環を返しますように申しますと、串戯《じょうだん》らしく、いや、これは、人間の手を放れたもの、烏の嘴から受取ったのだから返されない。もっとも、烏にならば、何時《なんどき》なりとも返して上げよう――とそう申して笑うんでございます。それでも、どうしても返しません。そして――確《たしか》に預る、決して迂散《うさん》なものでない――と云って、ちゃんと、衣兜《かくし》から名刺を出してくれました。奥様は、面白いね――とおっしゃいました。それから日を極《き》めまして、同じ暮方の頃、その男を木戸の外まで呼びましたのでございます。その間に、この、あの、烏の装束をお誂《あつら》え遊ばしました。そして私《わたくし》がそれを着て出まして、指環を受取りますつもりなのでございましたが、なぶってやろう、とおっしゃって、奥様が御自分に烏の装束をおめし遊ばして、塀の外へ――でも、ひょっと、野原に遊んでいる小児《こども》などが怪しい姿を見て、騒いで悪いというお心付きから、四阿《あずまや》へお呼び入れになりました。
紳士 奴は、あの木戸から入ったな。あの、木戸から。
侍女 男が吃驚《びっくり》するのを御覧、と私《わたくし》にお囁《ささや》きなさいました。奥様が、烏は脚では受取らない、とおっしゃって、男が掌《てのひら》にのせました指環を、ここをお開きなさいまして、(咽喉《のど》のあく処を示す)口でおくわえ遊ばしたのでございます。
紳士 口でな、もうその時から。毒蛇め。上頤下頤《うわあごしたあご》へ拳《こぶし》を引掛《ひっか》け、透通る歯と紅《べに》さいた唇を、めりめりと引裂く、売女《ばいた》。(足を挙げて、枯草を踏蹂《ふみにじ》る。)
画工 ううむ、(二声ばかり、夢に魘《うな》されたるもののごとし。)
紳士 (はじめて心付く)女郎《めろう》、こっちへ来い。(杖《ステッキ》をもって一方を指《ゆびさ》す。)
侍女 (震えながら)はい。
紳士 頭《かしら》を着けろ、被《かぶ》れ。俺の前を烏のように躍って行《ゆ》け、――飛べ。邸を横行する黒いものの形《かた》を確《しか》と見覚えておかねばならん。躍れ。衣兜《かくし》には短銃《ピストル》があるぞ。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから2字下げ]
侍女、烏のごとくその黒き袖を動かす。おののき震うと同じ状《さま》なり。紳士、あとに続いて入《い》る。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
三羽の烏 (声を揃えて叫ぶ)おいらのせいじゃないぞ。
一の烏 (笑う)ははははは、そこで何と言おう。
二の烏 しょう事はあるまい。やっぱり、あとは、烏のせいだと言わねばなるまい。
三の烏 すると、人間のした事を、俺たちが引被《ひっかぶ》るのだな。
二の烏 かぶろうとも、背負《しょ》おうとも。かぶった処で、背負った処で、人間のした事は、人間同士が勝手に夥間《なかま》うちで帳面づらを合せて行《ゆ》く、勘定の遣《や》り取りする。俺たちが構う事は少しもない。
三の烏 成程な、罪も報《むくい》も人間同士が背負いっこ、被《かぶ》りっこをするわけだ。一体、このたびの事の発源《おこり》は、そこな、お一《いち》どのが悪戯《いたずら》からはじまった次第だが、さて、こうなれば高い処で見物で事が済む。嘴《くちばし》を引傾《ひっかた》げて、ことんことんと案じてみれば、われらは、これ、余り性《たち》の善《い》い夥間でないな。
一の烏 いや、悪い事は少しもない。人間から言わせれば、善いとも悪いとも言おうがままだ。俺はただ屋の棟で、例の夕飯《ゆうめし》を稼いでいたのだ。処で艶麗《あでやか》な、奥方とか、それ、人間界で言うものが、虹の目だ、虹の目だ、と云うものを(嘴《くちばし》を指す)この黒い、鼻の先へひけらかした。この節、肉どころか、血どころか、贅沢《ぜいたく》な目玉などはついに賞翫《しょうがん》した験《ためし》がない。鳳凰《ほうおう》の髄《ずい》、麒麟《きりん》の鰓《えら》さえ、世にも稀な珍味と聞く。虹の目玉だ、やあ、八千年生延びろ、と逆落《さかおと》しの廂《ひさし》のはずれ、鵯越《ひよどりごえ》を遣ったがよ、生命《いのち》がけの仕事と思え。鳶《とび》なら油揚《あぶらあげ》も攫《さら》おうが、人間の手に持ったままを引手繰《ひったぐ》る段は、お互に得手でない。首尾よく、かちりと銜《くわ》えてな、スポンと中庭を抜けたは可《よ》かったが、虹の目玉と云う件《くだん》の代《しろ》ものはどうだ、歯も立たぬ。や、堅いの候《そうろう》の。先祖以来、田螺《たにし》を突《つッ》つくに練《きた》えた口も、さて、がっくりと参ったわ。お庇《かげ》で舌の根が弛《ゆる》んだ。癪《しゃく》だがよ、振放して素飛《すっと》ばいたまでの事だ。な、それが源《もと》で、人間が何をしょうと、かをしょうと、さっぱり俺が知った事ではあるまい。
二の烏 道理かな、説法かな。お釈迦様《しゃかさま》より間違いのない事を云うわ。いや、またお一どのの指環を銜えたのが悪ければ、晴上がった雨も悪し、ほかほかとした陽気も悪し、虹も悪い、と云わねばならぬ。雨や陽気がよくないからとて、どうするものだ。得ての、空の美しい虹の立つ時は、地にも綺麗な花が咲くよ。芍薬《しゃくやく》か、牡丹《ぼたん》か、菊か、猿《えて》が折って蓑《みの》にさす、お花畑のそれでなし不思議な花よ。名も知れぬ花よ。ざっと虹のような花よ。人間の家《や》の中《うち》に、そうした花の咲くのは壁にうどんげの開くとおなじだ。俺たちが見れば、薄暗い人間界に、眩《まぶし》い虹のような、その花のパッと咲いた処は鮮麗《あざやか》だ。な、家を忘れ、身を忘れ、生命《いのち》を忘れて咲く怪しい花ほど、美しい眺望《ながめ》はない。分けて今度の花は、お一どのが蒔《ま》いた紅《あか》い玉から咲いたもの、吉野紙の霞で包んで、露をかためた硝子《ビイドロ》の器《うつわ》の中へ密《そっ》と蔵《しま》ってもおこうものを。人間の黒い手は、これを見るが最後|掴《つか》み散らす。当人は、黄色い手袋、白い腕飾と思うそうだ。お互に見れば真黒《まっくろ》よ。人間が見て、俺たちを黒いと云うと同一《おなじ》かい、別して今来た親仁《おやじ》などは、鉄棒同然、腕に、火の舌を搦《から》めて吹いて、右の不思議な花を微塵《みじん》にしょうと苛《あせ》っておるわ。野暮《やぼ》めがな。はて、見ていれば綺麗なものを、仇花《あだばな》なりとも美しく咲かしておけば可《い》い事よ。
三の烏 なぞとな、お二《ふた》めが、体《てい》の可《い》い事を吐《ぬか》す癖に、朝烏の、朝桜、朝露の、朝風で、朝飯を急ぐ和郎《わろ》だ。何だ、仇花なりとも、美しく咲かしておけば可い事だ。からからからと笑わせるな。お互にここに何している。その虹の散るのを待って、やがて食おう、突こう、嘗《な》みょう、しゃぶろうと、毎夜、毎夜、この間、……咽喉《のど》、嘴《くちばし》を、カチカチと噛鳴《かみな》らいておるのでないかい。
二の烏 さればこそ待っている。桜の枝を踏めばといって、虫の数ほど花片《はなびら》も露もこぼさぬ俺たちだ。このたびの不思議なその大輪の虹の台《うてな》、紅玉の蕊《しべ》に咲いた花にも、俺たちが、何と、手を着けるか。雛芥子《ひなげし》が散って実になるまで、風が誘うを視《なが》めているのだ。色には、恋には、情《なさけ》には、その咲く花の二人を除《の》けて、他の人間はたいがい風だ。中にも、ぬしというものはな、主人《あるじ》というものはな、淵《ふち》に棲《す》むぬし、峰にすむ主人《あるじ》と同じで、これが暴風雨《あらし》よ、旋風《つむじかぜ》だ。一溜《ひとたま》りもなく吹散らす。ああ、無慙《むざん》な。
一の烏 と云ふ嘴《くちばし》を、こつこつ鳴らいて、内々その吹き散るのを待つのは誰だ。
二の烏 ははははは、俺達だ、ははははは。まず口だけは体《てい》の可《い》い事を言うて、その実はお互に餌食《えじき》を待つのだ。また、この花は、紅玉の蕊《しべ》から虹に咲いたものだが、散る時は、肉になり、血になり、五色《ごしき》の腸《はらわた》となる。やがて見ろ、脂の乗った鮟鱇《あんこう》のひも、という珍味を、つるりだ。
三の烏 いつの事だ、ああ、聞いただけでも堪《たま》らぬわ。(ばたばたと羽を煽《あお》つ。)
二の烏 急ぐな、どっち道俺たちのものだ。餌食がその柔かな白々とした手足を解いて、木の根の塗膳《ぬりぜん》、錦手《にしきで》の木《こ》の葉の小皿盛となるまでは、精々、咲いた花の首尾を守護して、夢中に躍跳ねるまで、楽《たのし》ませておかねばならん。網で捕《と》ったと、釣ったとでは、鯛《たい》の味が違うと言わぬか。あれ等を苦《くるし》ませてはならぬ、悲《かなし》ませてはならぬ、海の水を酒にして泳がせろ。
一の烏 むむ、そこで、椅子《いす》やら、卓子《テェブル》やら、天幕《テント》の上げさげまで手伝うかい。
三の烏 あれほどのものを、(天幕を指す)持運びから、始末まで、俺たちが、この黒い翼で人間の目から蔽《おお》うて手伝うとは悟り得ず、薄《すすき》の中に隠したつもりの、彼奴等《あいつら》の甘さが堪《たま》らん。が、俺たちの為《な》す処は、退いて見ると、如法《にょほう》これ下女下男の所為《しょい》だ。天《あめ》が下に何と烏ともあろうものが、大分権式を落すわけだな。
二の烏 獅子《しし》、虎《とら》、豹《ひょう》、地を走る獣。空を飛ぶ仲間では、鷲《わし》、鷹《たか》、みさごぐらいなものか、餌食を掴んで容色《きりょう》の可《い》いのは。……熊なんぞが、あの形で、椎の実を拝んだ形な。鶴とは申せど、尻を振って泥鰌《どじょう》を追懸《おっかけ》る容体などは、余り喝采《やんや》とは参らぬ図だ。誰も誰も、食《くら》うためには、品も威も下げると思え。さまでにして、手に入れる餌食だ。突《つつ》くとなれば会釈はない。骨までしゃぶるわ。餌食の無慙《むざん》さ、いや、またその骨の肉汁《ソップ》の旨《うま》さはよ。(身震いする。)
一の烏 (聞く半ばより、じろじろと酔臥《よいふ》したる画工を見ており)おふた、お二どの。
二の烏 あい。
三の烏 あい、と吐《ぬか》す、魔ものめが、ふてぶてしい。
二の烏 望みとあらば、可愛い、とも鳴くわ。
一の烏 いや、串戯《じょうだん》は措《お》け。俺は先刻《さっき》から思う事だ、待設けの珍味も可《い》いが、ここに目の前に転がった餌食はどうだ。
三の烏 その事よ、血の酒に酔う前に、腹へ底を入れておく相談にはなるまいかな。何分にも空腹だ。
二の烏 御同然に夜食前よ。俺も一先《いっさき》に心付いてはいるが、その人間はまだ食頃《くいごろ》にはならぬと思う。念のために、面《つら》を見ろ。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから2字下げ]
三羽の烏、ばさばさと寄り、頭《こうべ》を、手を、足を、ふんふんとかぐ。
[#ここで字下げ終わり]
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
一の烏 堪《たま》らぬ香《におい》だ。
三の烏 ああ、旨《うま》そうな。
二の烏 いや、まだそうはなるまいか。この歯をくいしばった処を見い。総じて寝ていても口を結んだ奴は、蓋《ふた》をした貝だと思え。うかつに嘴《はし》を入れると最後、大事な舌を挟まれる。やがて意地汚《いじきたな》の野良犬が来て舐《な》めよう。這奴《しゃつ》四足《よつあし》めに瀬踏《せぶみ》をさせて、可《よ》いとなって、その後で取蒐《とりかか》ろう。食ものが、悪いかして。脂のない人間だ。
一の烏 この際、乾《ひ》ものでも構わぬよ。
二の烏 生命《いのち》がけで乾ものを食って、一分《いちぶん》が立つと思うか、高蒔絵《たかまきえ》のお肴《とと》を待て。
三の烏 や、待つといえば、例の通り、ほんのりと薫って来た。
一の烏 おお、人臭いぞ。そりゃ、女のにおいだ。
二の烏 は
前へ 次へ
全4ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング