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初の烏 (思い着きたる体《てい》にて、一ツの瓶の酒を玉盞《ぎょくさん》に酌《つ》ぎ、燭《しょく》に翳《かざ》す。)おお、綺麗《きれい》だ。燭《あかり》が映って、透徹《すきとお》って、いつかの、あの時、夕日の色に輝いて、ちょうど東の空に立った虹《にじ》の、その虹の目のようだと云って、薄雲に翳《かざ》して御覧なすった、奥様の白い手の細い指には重そうな、指環《ゆびわ》の球《たま》に似てること。
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三羽の烏、打傾いて聞きつつあり。
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ああ、玉が溶けたと思う酒を飲んだら、どんな味がするだろうねえ。(烏の頭《かしら》を頂きたる、咽喉《のど》の黒き布をあけて、少《わか》き女の面《おもて》を顕《あらわ》し、酒を飲まんとして猶予《ためら》う。)あれ、ここは私には口だけれど、烏にするとちょうど咽喉だ。可厭《いや》だよ。咽喉だと血が流れるようでねえ。こんな事をしているんだから、気になる。よそう。まあ、独言《ひとりごと》を云って、誰かと話をしているようだよ……
(四辺《あたり》を※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまわ》す)そうそう、思った同士、人前で内証で心を通わす時は、一ツに向った卓子《テェブル》が、人知れず、脚を上げたり下げたりする、幽《かすか》な、しかし脈を打って、血の通う、その符牒《ふちょう》で、黙っていて、暗号《あいず》が出来ると、いつも奥様がおっしゃるもんだから、――卓子さん(卓をたたく)殊にお前さんは三ツ脚で、狐狗狸《こっくり》さん、そのままだもの。活《い》きてるも同じだと思うから、つい、お話をしたんだわ。しかし、うっかりして、少々大事な事を饒舌《しゃべ》ったんだから、お前さん聞いたばかりにしておいておくれ。誰にも言っては不可《いけ》ないよ。ちょいと、注《つ》いだ酒をどうしよう。ああ、いい事がある。(酔倒れたる画工に近づく。後《あと》の烏一ツ、同じく近寄りて、画工の項《うなじ》を抱《いだ》いて仰向《あおむ》けにす。)
酔ぱらいさん、さあ、冷水《おひや》。
画工 (飲みながら、現《うつつ》にて)ああ、日が出た、が、俺は暗夜《やみ》だ。(そのまま寝返る。)
初の烏 日が出たって――赤い酒から、私のこの烏を透かして、まあ。――画《え》に描いた太陽《おひさま》の夢を見たんだろう。何だか謎のような事を言ってるわね。――さあさあ、お寝室《ねま》ごしらえをしておきましょう。(もとに立戻りて、また薄《すすき》の中より、このたびは一領の天幕《テント》を引出し、卓子《テェブル》を蔽《おお》うて建廻す。三羽の烏、左右よりこれを手伝う。天幕の裡《うち》は、見ぶつ席より見えざるあつらえ。)お楽《たのし》みだわね。(天幕を背後《うしろ》にして正面に立つ。三羽の烏、その両方に彳《たたず》む。)
もう、すっかり日が暮れた。(時に、はじめてフト自分の他《ほか》に、烏の姿ありて立てるに心付く。されどおのが目を怪《あやし》む風情。少しずつ、あちこち歩行《ある》く。歩行くに連れて、烏の形動き絡《まと》うを見て、次第に疑惑《うたがい》を増し、手を挙ぐれば、烏等も同じく挙げ、袖を振動かせば、斉《ひと》しく振動かし、足を爪立つれば爪立ち、踞《しゃが》めば踞むを透《すか》し視《なが》めて、今はしも激しく恐怖し、慌《あわただ》しく駈出《かけいだ》す。)
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帽子を目深《まぶか》に、オーバーコートの鼠色なるを被《き》、太き洋杖《ステッキ》を持てる老紳士、憂鬱《ゆううつ》なる重き態度にて登場。
初《はじめ》の烏ハタと行当る。驚いて身を開く。紳士その袖を捉《とら》う。初の烏、遁《のが》れんとして威《おど》す真似して、かあかあ、と烏の声をなす。泣くがごとき女の声なり。
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紳士 こりゃ、地獄の門を背負《しょ》って、空を飛ぶ真似をするか。(掴《つかみ》ひしぐがごとくにして突離す。初の烏、※[#「てへん+堂」、第4水準2−13−41]《どう》と地に座《ざ》す。三羽の烏はわざとらしく吃驚《きっきょう》の身振《みぶり》をなす。)地を這《は》う烏は、鳴く声が違うじゃろう。うむ、どうじゃ。地を這う烏は何と鳴くか。
初の烏 御免なさいまし、どうぞ、御免なさいまし。
紳士 ははあ、御免なさいましと鳴くか。(繰返して)御免なさいましと鳴くじゃな。
初の烏 はい。
紳士 うむ、(重く頷《うなず》く)聞えた。とにかく、汝《きさま》の声は聞えた。――こりゃ、俺の声が分るか。
初の烏 ええ。
紳士 俺の声が分るかと云うんじゃ。こりゃ。面《つら》を上げろ。――どうだ。
初の烏 御前様《ごぜんさま》、あれ……
紳士 (杖《ステッキ》をもって、その裾《すそ》を圧《おさ》う)ばさばさ騒ぐな。槍《やり》で脇腹を突かれる外に、樹の上へ得《え》上る身体《からだ》でもないに、羽ばたきをするな、女郎《めろう》、手を支《つ》いて、静《じっ》として口をきけ。
初の烏 真《まこと》に申訳のございません、飛んだ失礼をいたしました。……先達《せんだ》って、奥様がお好みのお催しで、お邸《やしき》に園遊会の仮装がございました時、私《わたくし》がいたしました、あの、このこしらえが、余りよく似合ったと、皆様がそうおっしゃいましたものでございますから、つい、心得違いな事をはじめました。あの……後で、御前様が御旅行を遊ばしましたお留守中は、お邸にも御用が少うございますものですから、自分の買もの、用達《ようた》しだの、何のと申して、奥様にお暇を頂いては、こんな処へ出て参りまして、偶《たま》に通りますものを驚かしますのが面白くてなりませんので、つい、あの、癖になりまして、今晩も……旦那様に申訳のございません失礼をいたしました。どうぞ、御免遊ばして下さいまし。
紳士 言う事はそれだけか。
初の烏 はい?(聞返す。)
紳士 俺に云う事は、それだけか、女郎《めろう》。
初の烏 あの、(口籠《くちごも》る)今夜はどういたしました事でございますか、私《わたくし》の形《なり》……あの、影法師が、この、野中の宵闇《よいやみ》に判然《はっきり》と見えますのでございます。それさえ気味が悪うございますのに、気をつけて見ますと、二つも三つも、私《わたくし》と一所に動きますのでございますもの。
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三方に分れて彳《たたず》む、三羽の烏、また打頷《うちうなず》く。
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もう可恐《おそろし》くなりまして、夢中で駈出しましたものですから、御前様に、つい――あの、そして……御前様は、いつ御旅行さきから。
紳士 俺の旅行か。ふふん。(自ら嘲《あざ》ける口吻《くちぶり》)汝《きさま》たちは、俺が旅行をしたと思うか。
初の烏 はい、一昨日から、北海道の方へ。
紳士 俺の北海道は、すぐに俺の邸の周囲じゃ。
初の烏 はあ、(驚く。)
紳士 俺の旅行は、冥土《めいど》の旅のごときものじゃ。昔から、事が、こういう事が起って、それが破滅に近づく時は、誰もするわ。平凡な手段じゃ。通例過ぎる遣方《やりかた》じゃが、せんという事には行《ゆ》かなかった。今云うた冥土の旅を、可厭《いや》じゃと思うても、誰もしないわけには行《ゆ》かぬようなものじゃ。また、汝等《きさまら》とても、こういう事件の最後の際には、その家の主人か、良人《おっと》か、可《え》えか、俺がじゃ、ある手段として旅行するに極《きま》っとる事を知っておる。汝《きさま》は知らいでも、怜悧《りこう》なあれは知っておる。汝とても、少しは分っておろう。分っていて、その主人が旅行という隙間《すきま》を狙う。わざと安心して大胆な不埒《ふらち》を働く。うむ、耳を蔽《おお》うて鐸《すず》を盗むというのじゃ。いずれ音の立ち、声の響くのは覚悟じゃろう。何もかも隠さずに言ってしまえ。いつの事か。一体、いつ頃の事か。これ。
侍女 いつ頃とおっしゃって、あの、影法師の事でございましょうか。それは唯今《ただいま》……
紳士 黙れ。影法師か何か知らんが、汝等《きさまら》三人の黒い心が、形にあらわれて、俺の邸の内外を横行しはじめた時だ。
侍女 御免遊ばして、御前様、私《わたくし》は何にも存じません。
紳士 用意は出来とる。女郎《めろう》、俺の衣兜《かくし》には短銃《ピストル》があるぞ。
侍女 ええ。
紳士 さあ、言え。
侍女 御前様、お許し下さいまし。春の、暮方《くれがた》の事でございます。美しい虹《にじ》が立ちまして、盛りの藤の花と、つつじと一所に、お庭の池に影の映りましたのが、薄紫の頭《かしら》で、胸に炎の搦《から》みました、真紅《しんく》なつつじの羽の交《まじ》った、その虹の尾を曳《ひ》きました大きな鳥が、お二階を覗《のぞ》いておりますように見えたのでございます。その日は、御前様のお留守、奥様が欄干越に、その景色をお視《なが》めなさいまして、――ああ、綺麗な、この白い雲と、蒼空《あおぞら》の中に漲《みなぎ》った大鳥を御覧――お傍《そば》に居《お》りました私《わたくし》にそうおっしゃいまして――この鳥は、頭《かしら》は私の簪《かんざし》に、尾を私の帯になるために来たんだよ。角の九つある、竜が、頭《かしら》を兜《かぶと》に、尾を草摺《くさずり》に敷いて、敵に向う大将軍を飾ったように。……けれども、虹には目がないから、私の姿が見つからないので、頭《かしら》を水に浸して、うなだれ悄《しお》れている。どれ、目を遣《や》ろう――と仰有《おっしゃ》いますと、右の中指に嵌《は》めておいで遊ばした、指環《ゆびわ》の紅《あか》い玉でございます。開いては虹に見えぬし、伏せては奥様の目に見えません。ですから、その指環をお抜きなさいまして。
紳士 うむ、指環を抜いてだな。うむ、指環を抜いて。
侍女 そして、雪のようなお手の指を環《わ》に遊ばして、高い処で、青葉の上で、虹の膚《はだ》へ嵌めるようになさいますと、その指に空の色が透通りまして、紅い玉は、颯《さっ》と夕日に映って、まったく虹の瞳になって、そして晃々《きらきら》と輝きました。その時でございます。お庭も池も、真暗《まっくら》になったと思います。虹も消えました。黒いものが、ばっと来て、目潰《めつぶ》しを打ちますように、翼を拡げたと思いますと、その指環を、奥様の手から攫《さら》いまして、烏が飛びましたのでございます。露に光る木《こ》の実だ、と紅い玉を、間違えたのでございましょう。築山の松の梢《こずえ》を飛びまして、遠くも参りませんで、塀の上に、この、野の末の処へ入ります。真赤《まっか》な、まん円《まる》な、大きな太陽様《おひさま》の前に黒く留まったのが見えたのでございます。私は跣足《はだし》で庭へ駈下《かけお》りました。駈けつけて声を出しますと、烏はそのまま塀の外へまた飛びましたのでございます。ちょうどそこが、裏木戸の処でございます。あの木戸は、私が御奉公申しましてから、五年と申しますもの、お開け遊ばした事といっては一度もなかったのでございます。
紳士 うむ、あれは開けるべき木戸ではないのじゃ。俺が覚えてからも、止《や》むを得ん凶事で二度だけは開けんければならんじゃった。が、それとても凶事を追出いたばかりじゃ。外から入って来た不祥《ふしょう》はなかった。――それがその時、汝《きさま》の手で開いたのか。
侍女 ええ、錠《じょう》の鍵《かぎ》は、がっちりささっておりましたけれど、赤錆《あかさび》に錆切りまして、圧《お》しますと開きました。くされて落ちたのでございます。塀の外に、散歩らしいのが一人立っていたのでございます。その男が、烏の嘴《くちばし》から落しました奥様のその指環を、掌《てのひら》に載せまして、凝《じっ》と見ていましたのでござ
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