ようよう竹町の路地の角に、黒板塀に附着《くッつ》けて売物という札を貼《は》ってあった、屋台を一個《ひとつ》、持主の慈悲で負けてもらって、それから小道具を買揃えて、いそいそ俵町に曳《ひ》いて帰ると、馴れないことで、その辺の見計いはしておかなかった、件《くだん》の赤煉瓦と横窓との間の路地は、入口が狭いので、どうしても借家まで屋台を曳込《ひきこ》むことが出来ないので、そのまま夜一夜《よひとよ》置いたために、三晩とは措《お》かず盗まれてしまったので、祖父は最後の目的の水の泡になったのに、落胆して煩い着いたが、滝太郎の舌が廻って、祖父ちゃん祖父ちゃん、というのを聞いて、それを思出に世を去った。
 後は母親が手一ツで、細い乳を含めて遣《や》る、幼児《おさなご》が玉のような顔を見ては、世に何等かの大不平あってしかりしがごとき母親が我慢の角も折れたかして、涙で半襟の紫の色の褪《あ》せるのも、汗で美しい襦袢《じゅばん》の汚れるのも厭《いと》わず、意とせず、些々《ささ》たる内職をして苦労をし抜いて育てたが、六ツ七ツ八ツにもなれば、膳《ぜん》も別にして食べさせたいので、手内職では追着《おッつ》かないから、世話をするものがあって、毎日吾妻橋を越して一《ある》製糸場に通っていた。
 留守になると、橋手前には腕白盛《わんぱくざかり》の滝太一人、行儀をしつけるものもなし、居まわりが居まわりなんで、鼻緒を切らすと跣足《はだし》で駆歩行《かけある》く、袖が切れれば素裸《すッぱだか》で躍出る。砂を掴《つか》む、小砂利を投げる、溝泥《どぶどろ》を掻廻《かきまわ》す、喧嘩《けんか》はするが誰も味方をするものはない。日が暮れなければ母親は帰らぬから、昼の内は孤児《みなしご》同様。親が居ないと侮って、ちょいと小遣でもある徒《てあい》は、除物《のけもの》にして苛《いじ》めるのを、太腹《ふとッぱら》の勝気でものともせず、愚図々々いうと、まわらぬ舌で、自分が仰向《あおむ》いて見るほどの兄哥《あにい》に向って、べらぼうめ!

       三十

 その悪戯《いたずら》といったらない、長屋内は言うに及ばず、横町裏町まで刎《は》ね廻って、片時の間も手足を静《じっ》としてはいないから、余りその乱暴を憎らしがる女房《かみさん》達は、金魚だ金魚だとそういった。蓋《けだ》し美しいが食えないという意《こころ》だそうな。
 滝太はその可愛い、品のある容子《ようす》に似ず、また極めて殺伐《さつばつ》で、ものの生命《いのち》を取ることを事ともしない。蝶、蜻蛉《とんぼ》、蟻《あり》、蚯蚓《みみず》、目を遮るに任せてこれを屠殺《とさつ》したが、馴るるに従うて生類を捕獲するすさみに熟して、蝙蝠《こうもり》などは一たび干棹《ほしざお》を揮《ふる》えば、立処《たちどころ》に落ちたのである。虫も蛙となり、蛇となって、九ツ十ウに及ぶ頃は、薪雑棒《まきざっぽう》で猫を撃《う》って殺すようになった。あのね、ぶん撲《なぐ》るとね、飛着くよ。その時は何でもないの、もうちッと酷《ひど》くくらわすと、丸ッこくなってね、フッてんだ。呻《うな》っておっかねえ目をするよ、恐いよ。そこをも一ツ打《ぶ》つところりと死ぬさ。でもね、坊はね、あのはじめの内は手が震えてね、そこで止《よ》しちゃッたい。今じゃ、化猫わけなしだと、心得澄したもので。あれさ妄念《もうねん》が可恐《おそろ》しい、化けて出るからお止しよといえば、だから坊はね、おいらのせいじゃあないぞッて、そう言わあ。滝太郎はものの命を取る時に限らず、するな、止せ、不可《いけな》いと人のいうことをあえてする時は、手を動かしながら、幾たびも俺《おいら》のせいじゃないぞと、口癖のようにいつも言う。
 井戸端で水を浴びたり、合長屋の障子を、ト唾《つば》で破いて、その穴から舌を出したり、路地の木戸を石※[#「石+鬼」、第4水準2−82−48]《いしころ》でこつこつやったり、柱を釘で疵《きず》をつけたり、階子《はしご》を担いで駆出すやら、地蹈鞴《じだんだ》を蹈《ふ》んで唱歌を唄うやら、物真似は真先《まっさき》に覚えて来る、喧嘩の対手《あいて》は泣かせて帰る。ある時も裏町の人数八九名に取占《とっち》められて路地内へ遁《に》げ込むのを、容赦なく追詰めると、滝は廂《ひさし》を足場にある長屋の屋根へ這上《はいあが》って、瓦《かわら》を捲《ま》くって投出した。やんちゃんもここに至っては棄置かれず、言付け口をするも大人げないと、始終|蔭言《かげごと》ばかり言っていた女房《かみさん》達、耐《たま》りかねて、ちと滝太郎を窘《たし》なめるようにと、夜《よ》に入《い》ってから帰る母親に告げた事がある。
 しかるに、近所では美しいと、しおらしいで評判の誉物《ほめもの》だった母親が、毫《ごう》もこれを真《まこと》とはしない。ただそうですか済みませんとばかり、人前では当らず障らずに挨拶をして、滝や、滝やと不断の通り優《やさ》しい声。
 それもその筈《はず》、滝は他に向って乱暴|狼藉《ろうぜき》[#ルビの「ろうぜき」は底本では「ろうせき」]を極め、憚《はばか》らず乳虎《にゅうこ》の威を揮《ふる》うにもかかわらず、母親の前では大《おおき》な声でものも言わず、灯頃《ひともしころ》辻の方に母親の姿が見えると、駆出して行って迎えて帰る。それからは畳を歩行《ある》く跫音《あしおと》もしない位、以前の俤《おもかげ》の偲《しの》ばるる鏡台の引出《ひきだし》の隅に残った猿屋の小楊枝《こようじ》の尖《さき》で字をついて、膝も崩さず母親の前に畏《かしこま》って、二年級のおさらいをするのが聞える。あれだから母親《おッかさん》は本当にしないのだと、隣近所では切歯《はがみ》をしてもどかしがった。
 学校は私立だったが、先生はまたなく滝太郎を可愛がって、一度同級の者と掴合《つかみあい》をして遁《に》げて帰って、それッきり、登校しないのを、先生がわざわざ母親の留守に迎《むかい》に来て連れて行って、そのために先生は他《ほか》の生徒の父兄等に信用を失って、席札は櫛《くし》の歯の折れるように透いて無くなったが、あえて意《こころ》にも留めないで、ますます滝太郎を愛育した。いかにか見処《みどころ》があったのであろう。

       三十一

 しかるに先生は教うるにいかなる事をもってしたのであるか、まさかに悪智慧《わるぢえ》を着けはしまい。前年その長屋の表町に道普請があって、向側へ砂利を装上《もりあ》げたから、この町を通る腕車荷車は不残《のこらず》路地口の際を曳《ひ》いて通ることがあった。雨が続いて泥濘《ぬかるみ》になったのを見澄して、滝太が手で掬《すく》い、丸太で掘って、地面を窪《くぼ》めておき、木戸に立って車の来るのを待っていると、窪《くぼみ》は雨溜《あめだまり》で探りが入《い》らず、来るほどの車は皆輪が喰い込んで、がたりとなる。さらぬだに持余すのにこの陥羂《おとしわな》に懸《かか》っては、後へも前《さき》へも行くのではないから、汗になって弱るのを見ると、会心の笑《えみ》を洩《も》らして滝太、おじさん押してやろう、幾干《いくら》かくんねえ、と遣ったのである。自から頼む所がなくなってはさる計《はかりごと》もしはせまい、憎まれものの殺生|好《ずき》はまた相応した力もあった。それはともかく、あの悪智慧のほどが可恐《おそろ》しい、行末が思い遣られると、見るもの聞くもの舌を巻いた。滝太郎がその挙動を、鋭い目で角の屑屋の物置みたような二階の格子窓に、世を憚《はばか》る監視中の顔をあてて、匍匐《はらばい》になって見ていた、窃盗《せっとう》、万引、詐偽《さぎ》もその時|二十《はたち》までに数《すう》を知らず、ちょうど先月までくらい込んでいた、巣鴨が十たび目だという凄《すご》い女、渾名《あだな》を白魚のお兼といって、日向《ひなた》では消えそうな華奢《きゃしゃ》姿。島田が黒いばかり、透通るような雪の肌の、骨も見え透いた美しいのに、可恐《おそろ》しい悪党。すべて滝太郎の立居|挙動《ふるまい》に心を留めて、人が爪弾《つまはじき》をするのを、独り遮って賞《ほ》めちぎっていたが、滝ちゃん滝ちゃんといって可愛がること一通《ひととおり》でなかった処。……
 滝太郎が、その後《のち》十一の秋、母親が歿《みまか》ると、双葉にして芟《か》らざればなどと、差配佐次兵衛、講釈に聞いて来たことをそのまま言出して、合長屋が協議の上、欠けた火鉢の灰までをお銭《あし》にして、それで出合《だしあい》の涙金を添えて持たせ、道で鳶《とび》にでも攫《さら》われたら、世の中が無事で好《い》い位な考えで、俵町から滝太郎を。
 一昨日《おととい》来るぜい、おさらばだいと、高慢な毒口を利いて、ふいと小さなものが威張って出る。見え隠れにあとを跟《つ》けて、その夜《よ》金竜山の奥山で、滝さん餞別《せんべつ》をしようと言って、お兼が無名指《べにさし》からすっと抜いて、滝太郎に与えたのが今も身を離さず、勇美子が顔を赤らめてまで迫ったのを、頑として肯《き》かなかった指環《ゆびわ》なのである。
 その時、奥山で餞《はなむけ》した時、時ならぬ深夜の人影を吠《ほ》える黒犬があった。滝さんちょいとつかまえて御覧とお兼がいうから、もとより俵町|界隈《かいわい》の犬は、声を聞いて逃げた程の悪戯《いたずら》小憎。御意は可しで、飛鳥のごとく、逃げるのを追懸《おッか》けて、引捕《ひッとら》え、手もなく頸《うなじ》の斑《ぶち》を掴《つか》んで、いつか継父が児《こ》を縊《くび》り殺した死骸《しがい》の紫色の頬が附着《くッつ》いていた処だといって今でも人は寄附かない、ロハ台の際まで引摺《ひきず》って来ると、お兼は心得て粋《いき》な浴衣に半纏を引《ひっ》かけた姿でちょいと屈《かが》み、掌《てのひら》で黒斑を撫《な》でた、指環が閃《ひらめ》いたと見ると、犬の耳が片一方、お兼の掌《てのひら》の上へ血だらけになって乗ったのである。人間でもわけなしだよ、と目前奇特を見せ、仕方を教え、針のごとく細く、しかも爪ほどの大《おおき》さの恐るべき鋭利な匕首《ナイフ》を仕懸けた、純金の指環を取って、これを滝太郎の手に置くと、かつて少年の喜ぶべき品、食物なり、何等のものを与えてもついぞ嬉しがった験《ためし》のない、一つはそれも長屋|中《うち》に憎まれる基《もとい》であった滝太郎が、さも嬉しげに見て、じっと瞶《みつ》めた、星のような一双の眼《まなこ》の異様な輝《かがやき》は、お兼が黒い目で睨《にら》んでおいた。滝太郎は生れながらにして賊性を亨《う》けたのである。諸君は渠《かれ》がモウセンゴケに見惚《みと》れた勇美子の黒髪から、その薔薇《ばら》の薫《かおり》のある蝦茶《えびちゃ》のリボン飾を掏取《すりと》って、総曲輪の横町の黄昏《たそがれ》に、これを掌中に弄《もてあそ》んだのを記憶せらるるであろう。

       三十二

「滝さん、滝さん、おい、おい。」
「私《わっち》かい、」と滝太歩を停《とど》めて振返ると、木蔭を径《こみち》へずッと出たのは、先刻《さっき》から様子を伺っていた婦人《おんな》である。透かして見るより懐しげに、
「おう来たのか、おいら約束の処へ行ってお前《めえ》の来るのを待ってたんだけれども、ちょいと係合《かかりあい》で歩《ぶ》に取られて出て来たんだ。路《みち》は一筋だから大丈夫だとは思ったが、逢い違わなければ可いと思っての。」
「そう、私実は先刻《さっき》からここに居たんだよ。路先を切って何か始まったから、田舎は田舎だけに古風なことをすると思ってね、旅稼《たびかせぎ》の積《つもり》でぐッとお安く真中《まんなか》へ入ってやろうかと思ってる処へ、お前さんがお出《いで》だから見ていたの。あい、おかしくッて可《よ》うござんした。ここいらじゃあ尾鰭《おひれ》を振って、肩肱《かたひじ》を怒《いか》らしそうな年上なのを二人まで、手もなく追帰《おッかえ》したなあ大出来だ、ちょいと煽《あお》いでやりたいわねえ、滝さんお手柄。」
「馬鹿なことを謂ってらあ、何
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