もこっちが豪《えら》いんじゃあねえ。島野ッてね、あのひょろ長え奴が意気地なしで、知事を恐《こわ》がっていやあがるから、そこが附目《つけめ》よ。俺《おいら》に何か言われちゃあ、後で始末が悪いもんだから、同類の芋虫まで、自分で宥《なだ》めて連れて行ったまでのこッた。敵《むこう》が使ってる道具を反対《あべこべ》にこっちで使われたんだね、別なこたあねえ、知事様がお豪いのでござりますだ。」といって事も無げに笑った。
「それじゃあ滝さん、毒をもって毒を制するとやらいうのかい。」
「姉《ねえ》や、お前《めえ》学者だなあ、」
「旦那、御串戯《ごじょうだん》もんですよ。」と斉《ひと》しく笑った。
 身装《みなり》は構わず、絞《しぼり》のなえたので見すぼらしいが、鼻筋の通った、眦《めじり》の上った、意気の壮《さかん》なることその眉宇《びう》の間に溢《あふ》れて、ちっともめげぬ立振舞。わざと身を窶《やつ》してさるもののように見らるるのは、前《さき》の日総曲輪の化榎《ばけえのき》の下で、銀流しを売っていた婦人《おんな》であって――且つ少《わか》かりし時、浅草で滝太郎に指環を与えた女賊白魚のお兼である。もとより掏賊《すり》の用に供するために、自分の持物だった風変りな指環であるから、銀流を懸けろといって滝太が差出したのを、お兼は何条|見免《みのが》すべき。
 はじめは怪《あやし》み、中《なかば》は驚いて、果《はて》はその顔を見定めると、幼立《おさなだち》に覚えのある、裏長屋の悪戯《いたずら》小憎、かつてその黒い目で睨《にら》んでおいた少年の懐しさに、取った手を放さないでいたのであったが。十年ばかりも前のこと、場所も意外なり、境遇も変っているから、滝太郎の方では見忘れて、何とも覚えず、底気味が悪かった。
 横町の小児《こども》が足搦《あしがらみ》の縄を切払うごときは愚《おろか》なこと、引外して逃《にげ》るはずみに、指が切れて血が流れたのを、立合の衆《ひと》が怪《あやし》んで目を着けるから、場所を心得て声も懸けなかったほど、思慮の深い女賊は、滝太郎の秘密を守るために、仰いでその怪みを化榎に帰して、即時人の目を瞞《くる》めたので。
 越えて明くる夜《よ》、宵のほどさえ、分けて初更《しょこう》を過ぎて、商人《あきんど》の灯がまばらになる頃は、人の気勢《けはい》も近寄らない榎の下、お兼が店を片附ける所へ、突然と顕《あらわ》れ出《い》で、いま巻納めようとする茣蓙《ござ》の上へ、一束の紙幣を投げて、黙っててくんねえ、人に言っちゃ悪いぜとばかり、たちまち暗澹《あんたん》たる夜色は黒い布の中へ、機敏迅速な姿を隠そうとしたのは昨夜の少年。四辺《あたり》に人がないから、滝さんといって呼留めて、お兼は久《ひさし》ぶりでめぐりあったが、いずれも世を憚《はばか》って心置のない湯の谷で、今夜の会合をあらかじめ約したのであった。

       三十三

 二人は語らい合って、湯の谷の媼《ばば》が方《かた》へ歩き出した。
 お兼は四辺《あたり》を※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまわ》して、
「そりゃそうと、酷《ひど》い目に逢いそうだった姉さんはどうしたの。なんだかお前さんと、あの肥《ふと》った、」
「芋虫か、」
「え、じゃあ細長い方は蚯蚓《みみず》かい。おほほほほ、おかしいねえ、まあ、その芋虫と、蚯蚓とお前さんと。」
「厭《いや》だぜ、おいら虫じゃあねえよ。」と円《つぶら》に目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》ってわざと真顔になる。
「御免なさいまし、三人|巴《ともえ》になってごたごたしてるので、つい見はぐしたよ、どうしたろう。」
「何か、あの花売の別嬪《べっぴん》か。」
「高慢なことをいうねえ、花売だか何だか。」
「うむ、ありゃもう疾《とっ》くに帰った。俺《おい》ら可《い》いてことよと受合って来たけれども、不安心だと見えてあとからついて来たそうで、老人《としより》は苦労性だ。挨拶《あいさつ》だの、礼だの、誰方《どなた》だのと、面倒|臭《くせ》えから、ちょうど可い、連立《つれだ》たして、さっさと帰しちまった。」
「何しろ可《よ》かったねえ。喧嘩になって、また指環でも揮廻《ふりまわ》しはしないかと、私ははらはらして見ていたんだよ。ほんとにお前さん、あれを滅多に使っちゃあ悪うござんす。」
「蝮《まむし》の針だ、大事なものだ。人に見せて堪《たま》るもんか、そんなどじなこたあしやしないよ。」
「いかがですか、こないだ店前《みせさき》へ突出したお手際では怪しいもんだよ。多勢居る処じゃあないかね。」
「誰がまた姉や、お前《めえ》だと思うもんか。あの時はどきりとした、ほんとうだ、縛られるかと思った。」
「だからさ、私に限らず、どこにどんな者が居ないとも限らないからね、うっかりしちゃあ危険《けんのん》だよ。」
「あい、いいえ、それが何だ、知事のお嬢さんがね、いやに目をつけて指環を取換《とッか》えようなんて言うんだ。何だか機関《からくり》を見られるようで、気がさすから、目立たないのが可かろう、銀流でもかけておけと、訳はありゃしねえ、出来心で遣ったんだ、相済みません。」といって、莞爾《かんじ》として戯《たわむれ》にその頭《つむり》を下げた。
「沢山《たんと》お辞儀をなさい、お前さん怪《け》しからないねえ。そりゃ惚《ほ》れてるんだろう、恐入った?」
「おお、惚れたんだか何だか知らねえが、姫様《ひいさま》の野郎が血道を上げて騒いでるなあ、黒百合というもんです。」
「何だとえ。」
「百合の花の黒いんだッさ、そいつを欲しいって騒ぐんだな。」
「へい、欲しければ買ったら可さそうなもんじゃあないか。」
「それがね、不可《いけ》ねえんだ、銭金《ぜにかね》ずくじゃないんだってよ。何でも石滝って処を奥へ蹈込《ふみこ》むと、ちょうど今時分咲いてる花で、きっとあるんだそうだけれど、そこがまた大変な処でね、天窓《あたま》が石のような猿の神様が住んでるの、恐《おそろし》い大《おおき》な鷲《わし》が居るの、それから何だって、山ン中だというに、おかしいじゃあねえか、水掻《みずかき》のある牛が居るの、種々《いろいろ》なことをいって、まだ昔から誰も入ったことがないそうで、どうして取って来られるもんだとも思やしないんだってこッた。弱虫ばかり、喧嘩の対手《あいて》にするほどのものも居ねえ処だから、そン中へ蹈込んで、骨のある妖物《ばけもの》にでも、たんかを切ってやろうと、おいら何《なん》するけれども、つい忙《せわし》いもんだから思ったばかし。」
「まあ、大層お前さん、むずかしいのね、忙いって何の事だい。」
「だから待ちねえ、見せるてこッた、うんと一番《ひとつ》喜ばせるものがあるんだぜ。」
「ああ、その滝さんが見せるというものは、何だか知らないが見たいものだよ。」

       三十四

 滝太郎はかつて勇美子に、微細なるモウセンゴケの不思議な作用を発見した視力を誉《たた》えられて、そのどこで採獲《とりえ》たかの土地を聞かれた時、言葉を濁して顔の色を変えたことを――前回に言った。
 いでそのモウセンゴケを渠《かれ》が採集したのは、湯の谷なる山の裾の日当《ひあたり》に、雨の後ともなく常にじとじと、濡れた草が所々にある中においてした。しかもお雪が宿の庭|続《つづき》、竹藪《たけやぶ》で住居《すまい》を隔てた空地、直ちに山の裾が迫る処、その昔は温泉《ゆ》が湧出《わきで》たという、洞穴《ほらあな》のあたりであった。人は知らず、この温泉《ゆ》の口の奥は驚くべき秘密を有して、滝太郎が富山において、随処その病的の賊心を恣《ほしいまま》にした盗品を順序よく並べてある。されば、お雪が情人に貢ぐために行商する四季折々の花、美しく薫《かおり》のあるのを、露も溢《こぼ》さず、日ごとにこの洞穴の口浅く貯えておくのは、かえって、滝太郎が盗利品に向って投げた、花束であることを、あらかじめここに断っておかねばならぬ。
 さて、滝太郎がその可恐《おそろ》しい罪を隠蔽《いんぺい》しておく、温泉《ゆ》の口の辺《あたり》で、精細|式《かた》のごときモウセンゴケを見着けた目は、やがてまた自分がそこに出没する時、人目のありやなしやを熟《じっ》と見定める眼《まなこ》であるから、己《おのれ》の視線の及ぶ限《かぎり》は、樹も草も、雲の形も、日の色も、従うて蟻の動くのも、露のこぼるるのも知らねばならないので、地平線上に異状を呈した、モウセンゴケの作用は、むしろ渠がいまだかつて見も聞きもしなかったほど一層心着くに容易《たやす》いのであった。あたかも可し、さる必用を要する渠が眼《まなこ》は、世に有数の異相と称せらるる重瞳《ちょうどう》である。ただし一双ともにそうではない、左一つ瞳《ひとみ》が重《かさな》っている。
 そのせいであったろう。浅草で母親が病んで歿《みまか》る時、手を着いて枕許《まくらもと》に、衣帯を解かず看護した、滝太郎の頸《うなじ》を抱いて、(お前は何でもしたいことをおしよ、どんなことでもお前にはきっと出来るのだから、)といったッきり、もう咽喉《のど》がすうすうとなった。
 その上また母親はあらかじめ一封の書を認《したた》めておいて、不断滝太郎から聞き取って、その自分の信用を失うてまで、人の忌嫌う我児を愛育した先生に滝太郎の手から託さするように遺言して、(私が亡くなった後で、もしも富山からだといって人が尋ねて来たら、この手紙を渡して下さい。開けちゃあ不可《いけ》ません、来なかったらばそのままで破って下さい、きっとお見懸け申してお頼み申します。)と言わせたのである。
 やや一月ばかり経《た》つと、その言違《ことたが》わず果して富山からだといって尋ねて来たのが、すなわち当時の家令で、先代に託されて、その卒去の後《のち》、血統というものが絶えて無いので、三年間千破矢家を預《あずか》っていて今も滝太郎を守立ててる竜川守膳《たつかわしゅぜん》という漢学者。
 守膳は学校の先生から滝太郎の母親の遺書を受取ったが、その時は早や滝太郎が俵町を去って二月ばかり過ぎた後であったので、泰山のごとく動かず、風采《ふうさい》、千破矢家の傳《ふ》たるに足る竜川守膳が、顔の色を変えて血眼になって、その捜索を、府下における区々の警察に頼み聞えると、両国|回向院《えこういん》のかの鼠小憎の墓前《はかのまえ》に、居眠《いねむり》をしていた小憎があった。巡行の巡査が怪《あやし》んで引立《ひった》て、最寄の警察で取調べたのが、俵町の裏長屋に居たそれだと謂って引渡された。
 田舎は厭《いや》だと駄々を捏《こ》ねるのを、守膳が老功で宥《なだ》め賺《すか》し、道中土を蹈《ふ》まさず、動《ゆるぎ》殿のお湯殿子《ゆどのこ》調姫《しらべひめ》という扱いで、中仙道は近道だが、船でも陸《おか》でも親不知《おやしらず》を越さねばならぬからと、大事を取って、大廻《おおまわり》に東海道、敦賀、福井、金沢、高岡、それから富山。

       三十五

 湯の谷の神の使だという白烏《しろからす》は、朝月夜にばかり稀《まれ》に見るものがあると伝えたり。
 ものの音はそれではないか。時ならず、花屋が庭|続《つづき》の藪《やぶ》の際に、かさこそ、かさこそと響《ひびき》を伝えて、ややありて一面に広々として草まばらな赤土の山の裾《すそ》へ、残月の影に照らし出されたのは、小さい白い塊である。
 その描けるがごとき人の姿は、薄《うッす》りと影を引いて、地の上へ黒い線が流るるごとく、一文字に広場を横切って、竹藪を離れたと思うと、やがて吹流しに手拭を被《かぶ》った婦人《おんな》の姿が顕《あらわ》れて立ったが、先へ行《ゆ》く者のあとを拾うて、足早に歩行《ある》いて、一所になると、影は草の間に隠れて、二人は山腹に面した件《くだん》の温泉《ゆ》の口の処で立停《たちどま》った。夏の夜はまだ明けやらず、森《しん》として、樹の枝に鳥が塒《ねぐら》を蹈替《ふみか》える音もしない。
「跟《つ》いておいで、この中だ。」と低声《こごえ》
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