でいった滝太郎の声も、四辺《あたり》の寂莫《せきばく》に包まれて、異様に聞える。
 そのまま腰を屈《かが》めて、横穴の中へ消えるよう。
 お兼は抱着くがごとくにして、山腹の土に手をかけながら、体を横たえ、顔を斜《ななめ》にして差覗《さしのぞ》いて猶予《ためら》った。
「滝さん、暗いじゃあないか。」
 途端に紫の光一点、※[#「火+發」、308−13]《ぱっ》と響いて、早附木《マッチ》を摺《す》った。洞《ほら》の中は広く、滝太郎はかえって寛《くつろ》いで立っている。ほとんどその半身を蔽《おお》うまで、堆《うずだか》い草の葉|活々《いきいき》として冷たそうに露を溢《こぼ》さぬ浅翠《あさみどり》の中に、萌葱《もえぎ》、紅《あか》、薄黄色、幻のような早咲の秋草が、色も鮮麗《あざやか》に映って、今踏込むべき黒々とした土の色も見えたのである。
「花室《はなむろ》かい、綺麗だね。」
「入口は花室だ、まだずっと奥があるよ。これからつき当って曲るんだ、待っといで、暗いからな。」
 燃え尽して赤い棒になった早附木《マッチ》を棄てて、お兼を草花の中に残して、滝太郎は暗中に放れて去る。
 お兼は気を鎮めて洞《ほら》の口に立っていたが、たちまち慌《あわただ》しく呼んだ。
「ちょいと……ちょいと、ちょいと。」
 音も聞えず。お兼は尋常《ただ》ならず声を揚げて、
「滝さん、おい、ちょいと、滝さん。」
「おう、」と応《こた》えて、洞穴の隅の一方に少年の顔は顕れた。早く既に一個角燈に類した、あらかじめそこに用意をしてあるらしい灯《ともし》を手にしている。
 お兼は走り寄って、附着《くッつ》いて、
「恐しい音がする、何だい、大変な響だね。地面を抉《えぐ》り取るような音が聞えるじゃあないか。」
 いかにも洞の中は、ただこれ一条の大|瀑布《ばくふ》あって地の下に漲《みなぎ》るがごとき、凄《すさま》じい音が聞えるのである。
 滝太郎は事もなげに、
「ああ、こりゃね、神通川の音と、立山の地獄谷の音が一所になって聞えるんだって言うんだ。地底《じぞこ》がそこらまで続いているんだって、何でもないよ。」
 神通は富山市の北端を流るる北陸《ほくろく》七大川の随一なるものである。立山の地獄谷はまた世に響いたもので、ここにその恐るべき山川《さんせん》大叫喚の声を聞くのは、さすがに一個婦人の身に何でもない事ではない。
 お兼は顔の色も沈んで、滝太郎にひしと摺寄《すりよ》りながら、
「そうかい、川の音は可《い》いけれど地獄が聞えるなんざ気障《きざ》だねえ。ちょいと、これから奥へ入ってどうするのさ、お前さんやりやしないか。私ゃ殺されそうな気がするよ、不気味だねえ。」
「馬鹿なことを!」

       三十六

「いいえ、お前さん、何だか一通《ひととおり》じゃあないようだ、人殺《ひとごろし》もしかねない様子じゃあないか。」さすがの姉御《あねご》も洞中《ほらなか》の闇《やみ》に処して轟々《ごうごう》たる音の凄《すさま》じさに、奥へ導かれるのを逡巡《しりごみ》して言ったが、尋常《ただ》ならぬ光景に感ずる余り、半ばは滝太郎に戯れたので。
「おいで、さあ、夜が明けると人が見るぜ。出後《でおく》れた日にゃあ一日|逗留《とうりゅう》だ、」と言いながら、片手に燈《ともし》を釣って片手で袖を引くようにして連込んだ。お兼は身を任せて引かれ進むと、言うがごとく洞穴の突当りから左へ曲る真暗《まっくら》な処を通って、身を細うして行くとたちまち広し。
「まだまだ深いのかい。」
「もう可《い》い、ここはね、おい、誰も来る処じゃあねえよ。おいらだって、余程の工面で見着け出したんだ。」
 滝太郎はこう言いながら、手なる燈《ともし》を上げて四辺《あたり》を照らした。
 と見ると、処々《ところどころ》に筵《むしろ》を敷き、藁《わら》を束《つか》ね、あるいは紙を伸べ、布を拡げて仕切った上へ、四角、三角、菱形《ひしがた》のもの、丸いもの。紙入がある、莨入《たばこいれ》がある、時計がある。あるいは銀色の蒼《あお》く光るものあり、また銅《あかがね》の錆《さび》たるものあり、両手に抱えて余るほどな品は、一個《ひとつ》も見えないが、水晶の彫刻物、宝玉の飾《かざり》、錦《にしき》の切《きれ》、雛《ひいな》、香炉《こうろ》の類から、印のごときもの数えても尽されず、並べてあった。その列の最も端の方に据えたのが、蝦茶《えびちゃ》のリボン飾《かざり》、かつて勇美子が頭《かしら》に頂いたのが、色もあせないで燈《ひ》の影に黒ずんで見えた。傍《かたわら》には早附木《マッチ》の燃《もえ》さしが散《ちら》ばっていたのである。
 地獄谷の響《ひびき》、神通の流《ながれ》の音は、ひとしきりひとしきり脈を打って鳴り轟《とどろ》いて、堆《うずたか》いばかりの贓品《ぞうひん》は一個々々《ひとつびとつ》心あって物を語らんとするがごとく、響に触れ、燈《ともし》に映って不残《のこらず》動くように見えて、一種言うべからざる陰惨の趣がある。お兼はじっと見て物をも言わぬ、その一言も発しないのを、感に耐えたからだとも思ったろう。滝太郎は極めて得意な様子でお兼の顔を見遣りながら、件《くだん》のリボン飾《かざり》を指《ゆびさ》して、
「これがね、一番新しいんだぜ。ほら、こないだ総曲輪で、姉やに掴《つか》まった時ね、あの昼間だ、あの阿魔、知事の娘のせいでもあるまいが、何だか取難《とりにく》かったよ、夜店をぶらついてる奴等の簪《かんざし》を抜くたあなぜか勝手が違うんだ。でもとうとう遣ッつけた、可い心持だった、それから、」
 と言って飜《ひるがえ》って向うへ廻って、一個《ひとつ》の煙草入を照らして見せ、
「これが最初《はじめて》だ、富山へ来てから一番|前《さき》に遣ったのよ。それからね、見ねえ。」
 甚しいかな、古色を帯びた観世音の仏像一体。
「これには弱ったんだ、清全寺ッて言う巨寺《おおでら》の秘仏だっさ。去年の夏頃開帳があって、これを何だ、本堂の真中《まんなか》へ持出して大変な騒ぎを遣るんだ。加賀からも、越後からもね、おい、泊懸《とまりがけ》の参詣《さんけい》で、旅籠町の宿屋はみんな泊《とまり》を断るというじゃあねえか。二十一日の間拝ませた。二十一日目だったかな、おいらも人出に浮かされて見に行ったっけ。寺の近所は八町ばかり往来の留まる程だったが、何が難有《ありがて》えか、まるで狂人《きちがい》だ。人の中を這出《はいだ》して、片息になってお前《めえ》、本尊の前へにじり出て、台に乗っけて小さな堂を据えてよ、錦《にしき》の帳《とばり》を棒の尖《さき》で上げたり下げたりして、その度にわッと唸《うな》らせちゃあ、うんと御賽銭《おさいせん》をせしめてやがる。そのお前、前へ伸上って、帳の中を覗《のぞ》こうとした媼《ばばあ》があったさ。汝《うぬ》血迷ったかといって、役僧め、媼を取って突飛ばすと、人の天窓《あたま》の上へ尻餅を搗《つ》いた。あれ引摺出《ひきずりだ》せと講中《こうじゅう》、肩衣《かたぎぬ》で三方にお捻《ひねり》を積んで、ずらりと並んでいやがったが、七八人|一時《いっとき》に立上がる。忌々《いまいま》しい、可哀そうに老人《としより》をと思って癪《しゃく》に障ったから、おいらあな、」
 活気は少年の満面に溢《あふ》れて、蒼然《そうぜん》たる暗がりの可恐《おそろ》しい響《ひびき》の中に、灯はやや一条《ひとすじ》の光を放つ。

       三十七

「晩方で薄暗かったし、鼻と鼻と打《ぶ》つかっても誰だか分らねえような群衆だから難かしいこたあねえ。一番驚かしてやろうと思って、お前《めえ》、真直《まっすぐ》に出た。いきなり突立《つった》って、その仏像を帳《とばり》の中から引出したんだから乱暴なこたあ乱暴よ。媼《ばあ》やゆっくり拝みねえッて、掴《つか》みかかった坊主を一人|引捻《ひんねじ》って転《の》めらせたのに、片膝を着いて、差つけて見せてやった。どうして耐《たま》ったもんじゃあねえ。戦争の最中に支那《ちゃん》が小児《こども》を殺したってあんな騒《さわぎ》をしやあしまい。たちまち五六人血眼になって武者振つくと、仏敵だ、殺せと言って、固めている消防夫《しごとし》どもまで鳶口《とびぐち》を振って駈《か》け着けやがった。」
 光景の陰惨なのに気を打たれて、姿も悄然《しょうぜん》として淋しげに、心細く見えた女賊は、滝太郎が勇しい既往の物語にやや色を直して、蒼白《あおじろ》い顔の片頬《かたほ》に笑《えみ》を湛《たた》えていたが、思わず声を放って、
「危いねえ!」
「そんなこたあ心得てら。やい、おいらが手にゃあ仏様持ってるぜ、手を懸けられるなら懸けてみろッて、大《おおき》な声で喚《わめ》きつけた。」
「うむ、うむ、」とばかりお兼は嬉しそうに頷《うなず》いて聞くのである。
「おいらが手で持ってさいその位騒ぐ奴等だ、それをお前こっちへ掴んでるからうっかり手出《てだし》ゃならねえやな。堂の中は人間の黒山が崩れるばかり、潮が湧《わ》いたようになってごッた返す中を、仏様を振廻しちゃあ後へ後へと退《さが》って、位牌堂《いはいどう》へ飛込んで、そこからお前壁の隅ン処を突き破って、墓原へ出て田圃《たんぼ》へ逃げたぜ。その替り取れようとも思わねえ大変なものをやッつけた。今でもお前、これを盗まれたとってどの位探してるか知れねえよ。富山の家《うち》が五六百焼けたってあんなじゃあるめえと思う位、可い心持じゃあねえか。姉や、それだがね、おらあこんなことを遣ってからはじめてだ、実は恐《こわ》かった、殺されるだろうと思ったよ。へん、おいらアのせいじゃないぜ、大丈夫知れッこなしだ、占めたもんだい、この分じゃあ今に見ねえ、また大仕事をやらかしてやらあな。」
 血も迸《ほとば》しらんばかり壮《さかん》だった滝太郎の面《おもて》を、つくづく見て、またその罪の数を※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまわ》して、お兼はほっという息を吐《つ》いた。
 歎息《ためいき》して、力なげにほとんどよろめいたかと見えて、後《うしろ》ざまに壁のごとき山腹の土に凭《もた》れかかり、
「滝さん、まあ、こうやって、どうする意《つもり》だねえ。いいえ、知ってるさ。私だって、そうだったが、殊にお前さん銭金《ぜにかね》に不自由はなし、売ってどうしようというんじゃあない、こりゃ疾《やまい》なんだ。どうしても止《や》められやしないんだろうね。」
 言うことは白魚のお兼である。滝太郎は可怪《あやし》い目をして、
「誰がお前、これを止しちゃッて何がつまるもんか。おらあ時とすると筵《むしろ》を敷いて、夜一夜《よッぴて》この中で寝て帰ることがある位だ。見ねえ、おい、可い心持じゃあねえか、人にも見せてやりたくッてしようがねえんだけれど、下らない奴に嗅《かぎ》つけられた日にゃ打破《ぶちこわ》しだから、ああ、浅草で別れた姉やぐらいなのがあったらと、しょッちゅう思っていねえこたあなかったよ。おいら一人も友達は拵《こせ》えねえんだ、総曲輪でお前に、滝やッて言われた時にゃあ、どんなに喜んだと思うんだ、よく見て誉《ほ》めてくんねえな。」
 ずッと寄ると袖を開いて、姉御は何と思ったか、滝太郎の頸《うなじ》を抱いて、仰向《あおむき》の顔を、
「どれ、」
 燈《ともし》は捧げられた、二人はつくづくと目を見合せたのであった。お兼は屹《きっ》と打守って、
「滝さん、お前さんは自分の目がどんなに立派なものだか知ってるかね。」

       三十八

「お前さんの母様《おっかさん》が亡《なく》なんなすった時も、お前にゃあ何でもしたいことが出来るからってとお言いだったと聞いちゃあいたがね、まあ、随分思切ったこったね。何かい、ここで寝ることがあるのかい。」
「ああ、あの荒物屋の媼《ばば》っていうのが、それが、何よ、その清全寺で仏像の時の媼なんだから、おいらにゃあ自由が利くんだ。邸《やしき》からじゃあ面倒だからね、荒物屋を足溜《あしだまり》にしちゃあ働きに出るのよ。それでも何や彼《か》や出入に
前へ 次へ
全20ページ中12ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング