ッ》と摺附木《マッチ》を摺《す》る。小さな松火《たいまつ》は真暗《まっくら》な中に、火鉢の前に、壁の隅に、手拭の懸《かか》った下に、中腰で洋燈《ランプ》の火屋《ほや》を持ったお雪の姿を鮮麗《きれい》に照《てら》し出した。その名残《なごり》に奥の部屋の古びた油団《ゆとん》が冷々《ひやひや》と見えて、突抜けの縁の柱には、男の薄暗い形が顕《あら》われる。
島野は睨《にら》み見て、洋杖《ステッキ》と共に真直《まっすぐ》に動かず突立《つった》つ。お雪は小洋燈に灯を移して、摺附木を火鉢の中へ棄てた手で鬢《びん》の後毛《おくれげ》を掻上《かいあ》げざま、向直ると、はや上框《あがりがまち》、そのまま忙《せわ》しく出迎えた。
ちょいと手を支《つ》いて、
「まあ、どうも。」
「…………」島野は目の色も尋常《ただ》ならず、尖《とが》った鼻を横に向けて、ふんと呼吸《いき》をしたばかり。
「失礼、さあ、お上りなさいまし、取散らかしまして、汚穢《むそ》うございますが、」と極《きま》り悪げに四辺《あたり》を※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまわ》すのを、後《うしろ》の男に心を取られてするように悪推《わるずい》する、島野はますます憤って、口も利かず。
(無言なり。)
「お晩《おそ》うございましたのね。」と何やらつかぬことを言って、為方《しかた》なしにお雪は微笑《ほほえ》む。
「お邪魔をしましたな。」という声ぎっすりとして、車の輪の軋《きし》むがごとく、島野は決する処あって洋杖《ステッキ》を持換えた。
「お前ねえ、」
邪気|自《おのず》から膚《はだえ》を襲うて、ただは済みそうにもない、物ありげに思い取られるので、お雪は薄気味悪く、易《やす》からぬ色をして、
「はい。」
「あのな、」と重々しく言い懸けて、じろじろと顔を見る。
「どうぞ、まあ、」
「入っちゃあおられん。」
「どちらへか。」
「なあに。」
「お急ぎでございますか。」と畳に着く手も定まらない。
「ちょっと出てもらおう、」
「え、え。」
「用があるんだ。」
二十四
「後を頼むとって、お前様《めえさま》、どこさ行《ゆ》かっしゃる。」
ちょいとどうぞと店前《みせさき》から声を懸けられたので、荒物屋の婆《ばば》は急いで蚊帳を捲《まく》って、店へ出て、一枚着物を着換えたお雪を見た。繻子《しゅす》の帯もきりりとして、胸をしっかと下〆《したじめ》に女|扇子《おおぎ》を差し、余所行《よそゆき》の装《なり》、顔も丸顔で派手だけれども、気が済まぬか悄然《しょんぼり》しているのであった。
「お婆さん、私は直《じき》帰るんですが、」
「あい、」
「どうぞねえ、」と何やら心細そうで気に懸《かか》ると、老人《としより》の目も敏《さと》く、
「内方にゃ御病気なり、夜分、また、どうしてじゃ。総曲輪へ芝居にでも誘われさっせえたか。はての、」
と目を遣《や》ると、片蔭に洋服の長い姿、貧乏町の埃《ほこり》が懸るといったように、四辺《あたり》を払って島野が彳《たたず》む。南無三《なむさん》悪い奴と婆さんは察したから、
「何にせい、夜分|出歩行《である》くのは、若い人に良くないてや、留守の気を着けるのが面倒なではないけれども、大概なら止《よし》にさっしゃるが可《よ》かろうに。」
と目で知らせながら、さあらず言う。
「いえ、お召なんでございます。四十物町《あえものちょう》のお邸から、用があるッて、そう有仰《おっしゃ》るのでございますから。」
「四十物町のお花主《とくい》というと、何、知事様のお邸だッけや。」
「お嬢様が急に、御用がおあんなさいますッて。」
「うんや、善くないてや。お前様が行く気でも、私《わし》が留めます。お嬢様の御用とって、お前、医者じゃあなし、駕籠屋《かごや》じゃあなし、差迫った夜の用はありそうもない。大概の事は夜が明けてからする方が仕損じが無いものじゃ。若いものは、なおさら、女じゃでの、はて、月夜に歩いてさえ、美しい女の子は色が黒くなるという。」
「はい、ですけれども。」
「殊に闇《やみ》じゃ、狼が後《あと》を跟《つ》けるでの、たって止《や》めにさっせえよ。」と委細は飲込んだ上、そこらへ見当を付けたので、婆さんは聞えよがし。
島野は耐えかねてずッと出て、老人《としより》には目も遣らず、
「さあ、」
「…………」黙って俯向《うつむ》く。
「おい、」とちと大きくいって、洋杖《ステッキ》でこと、こと、こと。
お雪は覚悟をした顔を上げて、
「それじゃあお婆さん。」
「待たっせえ、いや、もし、お前様、もし、旦那様。」
顧みもせず島野は、己《おれ》ほどのものが、へん、愚民にお言葉を遣わさりょうや!
婆さんも躍気《やっき》になって、
「旦那様、もし。」
「おれか。」
「へい、婆《ばば》がお願《ねがい》でござります、お雪が用は明日のことになされ下さりませ。内には目の不自由な人もござりますし、四十物町までは道も大分でござりますで。」
「何だ、お前は。」
「へい、」
「さあ、行こう。」
お雪は黙って婆さんの顔を見たが、詮方《せんかた》なげで哀《あわれ》である。
「お前様、何といっても、」と空しく手を掉《ふ》って、伸上った、婆は縋着《すがりつ》いても放したくない。
「知事様のお使だ。」と島野が舌打して言った。
これが代官様より可恐《おそろ》しく婆の耳には響いたので、目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》って押黙る。
その時、花屋の奥で、凜《りん》として澄んで、うら悲しく、
[#ここから6字下げ]
雲横秦嶺家何在《くもはしんれいによこたわっていえいずくにかある》
雪擁藍関馬不前《ゆきはらんかんをようしてうますすまず》
[#ここで字下げ終わり]
と、韓湘《かんしょう》が道術をもって牡丹花《ぼたんか》の中に金字で顕《あらわ》したという、一|聯《れん》の句を口吟《くちずさ》む若山の声が聞えて止《や》んだ。
お雪はほろりとしたが、打仰いで、淋しげに笑って、
「どうぞ、ねえ。」
二十五
恩になる姫様《ひいさま》、勇美子が急な用というに悖《さから》い得ないで、島野に連出されたお雪は、屠所《としょ》の羊の歩《あゆみ》。
「どういう御用なんでございましょう。いつも御贔屓《ごひいき》になりますけれども、つい、お使なんぞ下さいましたことはございませんのに、何でしょうね、馴《な》れませんこッてすから、胸がどきどきして仕様がありません。」
島野は澄まして冷《ひやや》かに、
「そうですか。」
「貴下《あなた》御存じじゃあないのですか。」
「知らないね。」と気取った代脉《だいみゃく》が病症をいわぬに斉《ひと》しい。
わざと打解けて、底気味の悪い紳士の胸中を試みようとしたお雪は、取附《とりつく》島もなく悄《しお》れて黙った。
二人は顔を背け合って、それから総曲輪へ出て、四十物町へ行こうとする、杉垣が挟《さしはさ》んで、樹が押被《おっかぶ》さった径《こみち》を四五間。
「兄さんに聞いたら可《よ》かろう。」島野は突然こう言って、ずッと寄って、肩を並べ、
「何もそんなに胸までどきつかせるには当らない、大した用でもなかろうよ。たかがお前この頃|情人《いいひと》が出来たそうだね、お目出度いことよ位なことを謂《い》われるばかりさ。」
「厭《いや》でございます。」
「厭だって仕方がない、何も情人が出来たのに御祝儀をいわれるたッて、弱ることはないじゃあないか。ふん、結構なことさね、ふん、」
と呼吸《いき》がはずむ。
「ほんとうでございますか。」
「まったくよ。」
「あら、それでは、あの私《わたくし》は御免|蒙《こうむ》りますよ。」
お雪は思切って立停《たちど》まった、短くさし込んだ胸の扇もきりりとする。
「御免蒙るッて、来ないつもりか。おい、お嬢様が御用があるッて、僕がわざわざ迎《むかい》に来たんだが、御免蒙る、ふん、それで可《い》いのか。――御免蒙る――」
「それでも、おなぶり遊ばすんですもの、私《わたくし》は辛うございます。」
「可いさ、来なけりゃ可いさ、そのかわり、お前、知事様のお邸とは縁切だよ。宜《よ》かろう、毎日の米の代といっても差支えない、大切なお花主《とくい》を無くする上に、この間から相談のある、黒百合の話も徒為《ふい》になりやしないかね。仏蘭西《フランス》の友達に贈るのならばって、奥様も張込んで、勇美さんの小遣にうんと足して、ものの百円ぐらいは出そうという、お前その金子《かね》は生命《いのち》がけでも欲《ほし》いのだろう、どうだね、やっぱり御免を蒙りまするかね。」といって、にやにやと笑いけり。
お雪は深い溜息《ためいき》して、
「困っちまいました、私はもうどうしたら可いのでございましょうねえ。」
詮方なげに見えて島野に縋《すが》るようにいった。お雪は止《や》むことを得ず、その懐に入って救われんとしたのであろう。
紳士は殊の外その意を得た趣で、
「まあ、一所に来たまえ。だから僕が悪いようにゃしないというんだ。え、どこかちょっと人目に着かない処で道寄をしようじゃあないか、そしていろいろ相談をするとしよう。またどんな旨《うま》い話があろうも知れない。ははは、まずまあ毎日汗みずくになって、お花は五厘なんていって歩かないでも暮しのつくこッた。それに何さ、兄さんとかいう人に存分療治をさせたい、金子《かね》も自《おのず》から欲《ほし》くなくなるといったような、ね、まあまあ心配をすることはないよ、来たまえ!」といって、さっさっと歩行《ある》き出す。お雪は驚いて、追縋るようにして、
「貴下、どちらへ参るんでございます。」
二十六
「心得てるさ、ちっとも気あつかいのいらないように万事取計らうから可いよ。向うが空屋《あきや》で両隣が畠《はたけ》でな、聾《つんぼ》の婆さんが一人で居るという家が一軒、……どうだね、」と物凄《ものすご》いことをいう。この紳士は権柄《けんぺい》ずくにおためごかしを兼ねて、且つ色男なんだから極めて計らいにくいのであります。
勇美子の用でも何でもない。大方こんなこととは様子にも悟っていたが、打着けに言われたので、お雪も今更ぎょっとした。
「路《みち》も遠うございますから、晩《おそ》くなりましょう、直ぐあの、お邸の方へ参っちゃあ不可《いけ》ませんか。」
「何、遠慮することはないさ。」
これだもの。…………
「いいえ、」といったばかり。お雪は遁帰《にげかえ》る機掛《きっかけ》もなし、声を立てる数《すう》でもなし、理窟をいう分《わけ》にも行《ゆ》かず、急にお腹《なか》が痛むでもない。手もつけられねば、ものも言われず。
径《こみち》ややその半《なかば》を過ぎて、総曲輪に近くなると、島野は莞爾《にこや》かに見返って、
「どうだ、御飯でも食べて、それからその家《うち》へ行くとしようか。」
お雪はものもいい得ない。背後《うしろ》から大きな声で、
「奢《おご》れ奢れ、やあ、棄置かれん。」と無遠慮に喚《わめ》いてぬいと出た、この野面《のづら》を誰とかする。白薩摩の汚れた単衣《ひとえ》、紺染の兵子帯《へこおび》、いが栗天窓《ぐりあたま》、団栗目《どんぐりめ》、ころころと肥えて丈の低きが、藁草履《わらぞうり》を穿《うが》ちたる、豈《あに》それ多磨太にあらざらんや。
島野は悪い処へ、という思入《おもいれ》あり。
「おや、どちらへ。」
「ははあ、貴公と美人とが趣く処へどこへなと行くで。奢れ! 大分ほッついたで、夕飯の腹も、ちょうど北山とやらじゃわい。」
「いいえさ、どこへ行くんです。」と島野は生真面目《きまじめ》になって押えようとする、と肩を揺《ゆす》って、
「知事が処じゃ。」
「今ッからね。」
「うむ、勇美子さんが来てくれいと言うものじゃでの。」
「へい、」と妙な顔をする。
多磨太、大得意。
「何《なん》よ、また道寄も遣らかすわい。向うが空屋で両隣は畠だ、聾の婆《ばばあ》が留守をしとる、ちっとも気遣《きづかい》はいらんのじゃ、万事|私《わし》が
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