《おうな》、いつもその昔の繁華を語って落涙する。今はただ蚊が名物で、湯の谷といえば、市《まち》の者は蚊だと思う。木屑《きくず》などを焼《た》いた位で追着《おッつ》かぬと、売物の蚊遣香は買わさないで、杉葉《すぎッぱ》を掻《か》いてくれる深切さ。縁側に両人《ふたり》並んだのを見て嬉しそうに、
「へい、旦那様知ってるだね。」

       十七

「百合には種類が沢山あるそうだよ。」
 ささめ、為朝《ためとも》、博多《はかた》、鬼百合、姫百合は歌俳諧にも詠《よ》んで、誰も知ったる花。ほしなし、すけ、てんもく、たけしま、きひめ、という珍らしい名なるがあり。染色《そめいろ》は、紅《くれない》、黄、透《すかし》、絞《しぼり》、白百合は潔く、袂《たもと》、鹿《か》の子は愛々しい。薩摩《さつま》、琉球《りゅうきゅう》、朝鮮、吉野、花の名の八重百合というのもある。と若山は数えて、また紅絹《もみ》の切《きれ》で美しく目を圧《おさ》え、媼《おうな》を見、お雪を見て、楽しげに、且つ語るよう、
「話の様子では西洋で学問をなすったそうだし、植物のことにそういう趣味を持ってるなら、私よりは、お前のお花主《とくい》の、知事の嬢さんが、よく知ってお在《いで》だろうが、黒百合というのもやっぱりその百合の中の一ツで、花が黒いというけれども、私が聞いたのでは、真黒《まっくろ》な花というものはないそうさ。」
「はい、」しばらくして、「はい、」媼は返事ばかりでは気が済まぬか、団扇持つ手と顔とを動かして、笑傾《えみかたむ》けては打頷《うちうなず》く。
「それでは、あの本当はないのでございますか。」とお雪は拓の座を避けて、斜《ななめ》に縁側に掛けている。
「いえ、無いというのじゃあないよ。黒い色のはあるまいと思うけれども、その黒百合というのは帯紫暗緑色で、そうさ、ごくごく濃い紫に緑が交《まじ》った、まあ黒いといっても可いのだろう。花は夏咲く、丈一尺ばかり、梢《こずえ》の処へ莟《つぼみ》を持つのは他《ほか》の百合も違いはない。花弁《はなびら》は六つだ、蕊《しべ》も六つあって、黄色い粉の袋が附着《くッつ》いてる。私が聞いたのはそれだけなんだ。西洋の書物には無いそうで、日本にも珍らしかろう。書いたものには、ただ北国《ほっこく》の高山で、人跡の到らない処に在るというんだから、昔はまあ、仙人か神様ばかり眺めるものだと思った位だろうよ。東京理科大学の標本室には、加賀の白山《はくさん》で取ったのと、信州の駒《こま》ヶ嶽《たけ》と御嶽《おんたけ》と、もう一色《ひといろ》、北海道の札幌で見出《みだ》したのと、四通り黒百合があるそうだが、私はまだ見たことはなかった。
 お雪さん、そしてその花を欲しいというお嬢さんは、どういう考えで居るんだね。」
「はい、あのこないだからいつでもお頼みなさいますんでございますが、そういう風に御存じのではないのですよ。やっぱり私達が、名を聞いております通《とおり》、芝居でいたします早百合《さゆり》姫のことで、富山には黒百合があるッていうから、欲しい、どんな珍らしい花かも知れぬ。そして仏蘭西《フランス》にいらしった時、大層御懇意に遊ばした、その方もああいうことに凝っていらっしゃるお友達に、由緒を書いて贈りたいといってお騒ぎなんでございます。お請合《うけあい》はしませんけれども、黒百合のある処は解っておりますからとそう言って参りましたが、太閤記に書いてあります草双紙のお話のような、それより外|当地《ここ》でもまだ誰も見たものはないのでございますから、どうかしら、怪しいと存じました。それでは、あの、貴方《あなた》、処に因って、在る処には、きっと有るのでございますね。」
 とお雪は膝に手を置いて、ものを思うごとく、じっと気を沈めて、念を入れて尋ねたのである。その時、白地の浴衣を着た、髪もやや乱れていたお雪の窶《やつ》れた姿は、蚊遣の中に悄然《しょうぜん》として見えたが、面《おもて》には一種不可言の勇気と喜《よろこび》の色が微《かすか》に動いた。
「おお、燻《くすぶ》る燻る、これは耐《たま》りませぬ、お目の悪いに。」
 一団の烟《けぶり》が急に渦《うづま》いて出るのを、掴《つか》んで投げんと欲するごとく、婆さんは手を掉《ふ》った。風があたって、※[#「火+發」、262−14]《ぱっ》とする下火の影に、その髪は白く、顔は赤い。黄昏《たそがれ》の色は一面に裏山を籠《こ》めて庭に懸《かか》れり。
 若山は半面に団扇を翳《かざ》して、
「当地《こちら》で黒百合のあるのはどこだとか言ったっけな。」

       十八

「ねえ、お婆さん。」
 お雪は、黒百合が富山にある、場所の答を、婆さんに譲って、其方《そなた》を見た。
 湯の谷の主は習わずして自《おのず》から這般《しゃはん》の問に応ずべき、経験と知識とを有しているので、
「はい、石滝《いわたき》の奥には咲くそうでござります。」
 若山は静かに目を眠ったまま、
「どんな処ですか。」
「蛍の名所なのね。」とお雪は引取る。
「ええ、その入口迄は女子供も参りまする、夏の遊山場でな、お前様。お茶屋も懸《かか》っておりまするで、素麺《そうめん》、白玉、心太《ところてん》など冷物《ひやしもの》もござりますが、一坂越えると、滝がござります。そこまでも夜分参るものは少い位で、その奥山と申しますと、今身を投げようとするものでも恐がって入りませぬ。その中でなければ無いと申しますもの、とても見られますものではござりますまい。」婆さんは言って、蚊遣を煽《あお》ぐ団扇の手を留めて、その柄を踞《つくば》った膝の上にする。
「それでは滝があって蛍の名所、石滝という処は湿地だと見えるね。」
「それはもう昼も夜も真暗《まっくら》でござります。いかいこと樹が茂って、満月の時も光が射《さ》すのじゃござりませぬ。
 一体いつでも小雨が降っておりますような、この上もない陰気な所で、お城の真北《まッきた》に当りますそうな。ちょうどこの湯の谷とは両方の端で、こっちは南、田※[#「なべぶた/(田+久)」、264−5]《たんぼ》も広々としていつも明《あかる》うござりますほど、石滝は陰気じゃで、そのせいでもござりましょうか、評判の魔所で、お前様、ついしか入ったものの無事に帰りました例《ためし》はござりませぬよ。」
「その奥に黒百合があるんですッて、」お雪は婆さんの言《ことば》を取って、確めてこれを男に告げた。
 若山はややあって、
「そりゃきっとあるな、その色といい、形といい、それからその昔からの言い伝《つたえ》で、何か黒百合といえば因縁事の絡《まつ》わった、美しい、黒い、艶《つや》を持った、紫色の、物凄《ものすご》い、堅い花のように思われるのに、石滝という処は、今の談《はなし》では、場処も、様子もその花があって差支えないと考える。もっとも有ることはあるのだから、大方黒百合が咲いてるだろう。夏月《かげつ》花ありという時節もちょうど今なんだけれども、何かね、本当にあるものなら、お前さん、その嬢さんに頼まれたから、取りにでも行《ゆ》こうというのか。」と落着いて尋ねて、渠《かれ》は気遣わしく傾いた。
「…………」お雪はふとその答に支《つか》えたが、婆さんはかえって猶予《ためら》わない。
「滅相な、お前様、この湯の谷の神様が使わっしゃる、白い烏が守ればといって、若い女が、どうして滝まで行《ゆ》かれますものか。取りにでも行く気かなぞと、問わっしゃるさえ気が知れませぬてや。ぷッ、」と、おどけたような顔をして婆《ばば》は消えかかった蚊遣を吹いた。杉葉の瓦鉢《かわらばち》の底に赤く残って、烟《けぶり》も立たず燃え尽しぬ。
「お婆さん、御深切に難有《ありがと》う。」
 とうっかり物|思《おもい》に沈んでいたお雪は、心着いて礼をいう。
「あいあい、何の。もう、お大事になされませ、今にまたあの犬を連れた可厭《いやら》しいお客がござって迷惑なら、私家《わしとこ》へ来て、屈《かが》んで居ッさい。どれ、店を開けておいて、いかいこと油を売ったぞ、いや、どッこいな。」と立つ。

       十九

 帰りたくなると委細は構わず、庭口から、とぼとぼと戸外《おもて》へ出て行《ゆ》く。荒物屋の婆《ばばあ》はこの時分から忙《せわ》しい商売がある、隣の医者が家《うち》ばかり昔の温泉宿《ゆやど》の名残《なごり》を留《とど》めて、徒《いたず》らに大構《おおがまえ》の癖に、昼も夜も寂莫《せきばく》として物音も聞えず、その細君が図抜けて美しいといって、滅多に外へ出たこともないが、向うも、隣も、筋向いも、いずれ浅間で、豆洋燈《まめランプ》の灯が一ツあれば、襖《ふすま》も、壁も、飯櫃《めしびつ》の底まで、戸外《おもて》から一目に見透かされる。花売の娘も同じこと、いずれも夜が明けると富山の町へ稼ぎに出る、下駄の歯入、氷売、団扇売、土方、日傭取《ひやとい》などが、一廓を作《な》した貧乏町。思い思い、町々八方へ散《ちら》ばってるのが、日暮になれば総曲輪から一筋道を、順繰に帰って来るので、それから一時《ひとしきり》騒がしい。水を汲《く》む、胡瓜《きゅうり》を刻む。俎板《まないた》とんとん庖丁チョキチョキ、出放題な、生欠伸《なまあくび》をして大歎息を発する。翌日《あくるひ》の天気の噂をする、お題目を唱える、小児《こども》を叱る、わッという。戸外《おもて》では幼い声で、――蛍来い、山見て来い、行燈《あんど》の光をちょいと見て来い!
「これこれ暗くなった。天狗様が攫《さら》わっしゃるに寝っしゃい。」と帰途《かえり》がけに門口《かどぐち》で小児を威《おど》しながら、婆さんは留守にした己《おのれ》の店の、草鞋《わらじ》の下を潜《くぐ》って入った。
 草履を土間に脱いで、一渡《ひとわたり》店の売物に目を配ると、真中《まんなか》に釣《つる》した古いブリキの笠の洋燈《ランプ》は暗いが、駄菓子にも飴《あめ》にも、鼠は着かなかった、がたりという音もなし、納戸の暗がりは細流のような蚊の声で、耳の底に響くばかりなり。
「可恐《おそろ》しい唸《うなり》じゃな。」と呟《つぶや》いて、一|間口《けんぐち》の隔《へだて》の障子の中へ、腰を曲げて天窓《あたま》から入ると、
「おう、帰ったのか。」
「おや。」
「酷《ひど》い蚊だなあ。」
「まあ、お前様《めえさま》。まあ、こんな中に先刻《さっき》にからござらせえたか。」
「今しがた。」
「暗いから、はや、なお耐《たま》りましねえ。いかなこッても、勝手が分らねえけりゃ、店の洋燈でも引外《ひっぱず》してござれば可《よ》いに。」
 深切を叱言《こごと》のごとくぶつぶつ言って、納戸の隅の方をかさかさごそりごそりと遣る。
「可《い》いから、可いから。」といって、しばらくすると膝を立直した気勢《けはい》がした。
「近所の静まるまで、もうちっと灯《あかし》を点《つ》けないでおけよ。」
「へい。」
「覗《のぞ》くと煩《うるさ》いや。」
「それでは蚊帳を釣って進ぜましょ。」
「何、おいら、直ぐ出掛けようかとも思ってるんだ。」
「可いようにさっしゃりませ。」
「ああ、それから待ちねえこうだと、今に一人|此家《ここ》へ尋ねて来るものがあるんだから、頼むぜ。」
「お友達かね。お前様は物事《ものずき》じゃで可《よ》いけれど、お前様のような方のお附合なさる人は、から、入ってしばらくでも居られます所じゃあござりませぬが。」
 言いも終らず、快活に、
「気扱いがいる奴じゃねえ、汚《きたね》え婦人《おんな》よ。」
「おや!」と頓興《とんきょ》にいった、婆《ばば》の声の下にくすくすと笑うのが聞える。
「婆ちゃん、おくんな。」と店先で小児《こども》の声、繰返して、
「おくんな。」
「おい。」
「静《しずか》に………」といって、暗中の客は寝転んだ様子である。

       二十

 婆《ばば》が帰った後《あと》、縁側に身を開いて、一人は柱に凭《よ》って仰向《あおむ》き、一人は膝に手を置いて俯向《うつむ》いて、涼しい暗い処に、白地の浴衣で居た、お
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