うちりめん》の腰巻で、手拭《てぬぐい》を肩に当て、縄からげにして巻いた茣蓙《ござ》を軽《かろ》げに荷《にな》った、商《あきない》帰り。町や辻では評判の花売が、曲角から遠くもあらず、横町の怪我《けが》を見ると、我を忘れたごとく一飛《ひととび》に走り着いて、転んだ地《つち》へ諸共に膝を折敷いて、扶《たす》け起そうとする時、さまでは顛動《てんどう》せず、力なげに身を起して立つ。
「どこも怪我はしませんか。」と人目も構わず、紅絹を持った男の手に縋《すが》らぬばかりに、ひたと寄って顔を覗《のぞ》く。
「やあい、やあい。」
「盲目《めくら》やあい、按摩針《あんまはり》。」と囃《はや》したので、娘は心着いて、屹《きっ》と見て、立直った。
「おいらのせいじゃあないぞ、」
「三年先の烏のせい。」
 甲走《かんばし》った早口に言い交わして、両側から二列に並んで遁《に》げ出した。その西の手から東の手へ、一条《ひとすじ》の糸を渡したので町幅を截《き》って引張《ひっぱり》合って、はらはらと走り、三ツ四ツ小さな顔が、交《かわ》る交《がわ》る見返り、見返り、
「雁《がん》が一羽|懸《かか》った、」
「懸った、懸った。」
「晩のお菜《かず》に煮て食おう。」と囃しざま、糸に繋《つなが》ったなり一団《ひとかたまり》になったと見ると、大《おおき》な廂《ひさし》の、暗い中へ、ちょろりと入って隠れてしまった。
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  新庄《しんじょ》通れば、茨《いばら》と、藤と、
藤が巻附く、茨が留める、
  茨放せや、帯ゃ切れる、
      さあい、さんさ、よんさの、よいやな。
[#ここで字下げ終わり]
 と女の子のあどけないのが幾|人《たり》か声を揃えて唄うのが、町を隔てて彼方《あなた》に聞える。
 二人は聞いて立並んで、黙って、顔を見て吻《ほっ》と息。

       八

「小児《こども》衆ですよ、不可《いけ》ません。両方から縄を引張《ひっぱ》って、軒下に隠れていて、人が通ると、足へ引懸《ひッか》けるんですもの、悪いことをしますねえ。」
「お雪さん、」と言いかけて、男はその淋しげな顔を背けた。声は、足を搦《から》んで僵《たお》された五分を経ない後《のち》にも似ず、落着いて沈んでいる。
「はい、どこも何ともなさいませんか。」
 お雪と呼ばれた花売の娘は、優しく男の胸の辺りで百合の姿のしおらしい顔を、傾けて仰いで見た。
「いえ、何、擦剥《すりむき》もしないようだ。」と力なく手を垂れて、膝の辺りを静《しずか》に払《はた》く。
「まあ、砂がついて、あれ、こんなに、」と可怨《うらめ》しそうに、袖についた埃《ほこり》を払おうとしたが、ふと気を着けると、袂《たもと》は冷々《ひやひや》と湿りを持って、塗《まみ》れた砂も落尽くさず、またその漆黒な髪もしっとりと濡れている。男の眉は自《おのず》から顰《ひそ》んで、紅絹《もみ》の切《きれ》で、赤々と押えた目の縁《ふち》も潤んだ様子。娘は袂に縋《すが》ったまま、荷を結えた縄の端を、思わず落そうとしてしっかり取った。
「今帰るのかい。」
「は……い。」
「暑いのに随分だな。」
 思入って労《ねぎら》う言葉。お雪は身に染み、胸に応《こた》えて、
「あなた。」
「ああ、」
「お医者様は、」
 問われて目を圧《おさ》えた手が微《かすか》に震え、
「悪い方じゃあないッていうが、どうも捗々《はかばか》しくは行《ゆ》かぬそうだ。なりたけまあ大事にして、ものを見ないようにする方が可《い》いっていうもんだから、ここはちょうど人通の少い処、密《そっ》と目を塞《ふさ》いで探って来たので、ついとんだ羂《わな》に蹈込《ふみこ》んださ、意気地《いくじ》はないな、忌々《いまいま》しい。」
 とさりげなく打頬笑《うちほほえ》む。これに心を安んじたか、お雪もやや色を直して、
「どうぞまあ、お医者様を内へお呼び申すことにして、あなたはお寝《よ》って、何にもしないでいらっしゃるようにしたいものでございますね。」
「それは何、懇意な男だから、先方《さき》でもそう言ってくれるけれども、上手なだけ流行るので隙《ひま》といっちゃあない様子、それも気の毒じゃあるし、何、寝ているほどの事もないんだよ。」
「でも、随分お悪いようですよ。そしてあの、お帰途《かえり》に湯にでもお入りなすったの。」
 考えて、
「え、なぜね。」
「お頭《つむり》が濡れておりますもの。」
「む、何ね、そうか、濡れてるか、そうだろう[#「そうだろう」は底本では「そうだらう」]。医者が冷《ひや》してくれたから。」と、詰《なじ》られて言開《いいひらき》をする者のような弱い調子で、努めて平気を装って言った。
「冷しますと、お薬になるんですか。」と袂を持つ手に力が入ると、男は心着いて探ってみたが、苦笑して
「おお、湿った手拭を入れておいたな、だらしのない、袂が濡れた。成る程|女房《おかみさん》には叱られそうなこッた。」
「あれ、あんなことをいっていらっしゃるよ。」と嬉しそうに莞爾《にっこり》したが、これで愁眉《しゅうび》が開けたと見える。
「御一所に帰りましょうか。」
「別々に行《ゆ》こうよ、ちっと穏《おだやか》でないから。いや、大丈夫だ。」
「気を着けて下さいましよ。」

       九

 男女《ふたり》が前後して総曲輪《そうがわ》へ出て、この町の角を横切って、往来《ゆきき》の早い人中に交《まじ》って見えなくなると、小児《こども》がまた四五人一団になって顕《あらわ》れたが、ばらばらと駈《か》けて来て、左右に分れて、旧《もと》のごとく軒下に蹲《しゃが》んで隠れた。
 月の色はやや青く、蜘蛛《くも》はその囲《い》を営むのに忙《せわ》しい。
 その時|旅籠町《はたごまち》の通《とおり》の方から、同じこの小路を抜けようとして、薄暗い中に入って来たのは、一|人《にん》の美少年。
 パナマの帽を前下り、目も隠れるほど深く俯向《うつむ》いたが、口笛を吹くでもなく、右の指の節を唇に当て、素肌に着た絹セルの単衣《ひとえ》の衣紋《えもん》を緩《くつろ》げ――弥蔵《やぞう》という奴――内懐に落した手に、何か持って一心に瞻《みつ》めながら、悠々と歩を移す。小間使が言った千破矢の若君という御容子《ごようす》はどこへやら、これならば、不可《いけね》えの、居やがるのと、いけぞんざいなことも言いそうな滝太郎。
「ふん。」
 片微笑《かたほえみ》をして、また懐の中を熟《じっ》と見て、
「おいらのせいじゃあないぞ。」と仇口《あだぐち》に呟《つぶや》いた。
「やあい、やい」
「盲目《めくら》やあい。」
 小児《こども》は一時《いちどき》に哄《どッ》と囃したが、滝太郎は俯向いたまま、突当ったようになって立停《たちどま》ったばかり、形も崩さず自若としていた。
 膝の辺りへ一条《ひとすじ》の糸が懸《かか》ったのを、一生懸命両方から引張《ひっぱ》って、
「雁が一羽懸った、」
「懸った、懸った、」と夢中になり、口々に騒ぎ立つのは、大方獲物が先刻《さっき》のごとく足を取られたと思ったろう。幼いものは、驚破《すわ》というと自分の目を先に塞《ふさ》ぐのであるから、敵の動静はよくも認めず、血迷ってただ燥《はしゃ》ぐ。
 左右を※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまわ》して、叱りもしない、滝太郎の涼しやかな目は極めて優しく、口許《くちもと》にも愛嬌《あいきょう》があって、柔和な、大人しやかな、気高い、可懐《なつか》しいものであったから、南無三《なむさん》仕損じたか、逃後《にげおく》れて間拍子を失った悪戯者《いたずらもの》。此奴《こいつ》羽搏《はばたき》をしない雁だ、と高を括《くく》って図々しや。
「ええ、そっちを引張んねえ。」
「下へ、下へ、」
「弛《ゆる》めて、潜《くぐ》らせやい。」
「巻付けろ。」
 遊軍に控えたのまで手を添えて、搦《から》め倒そうとする糸が乱れて、網の目のように、裾、袂、帯へ来て、懸っては脱《はず》れ、また纏《まと》うのを、身動きもしないで、彳《たたず》んで、目も放さず、面白そうに見ていたが、やや有って、狙《ねらい》を着けたのか、ここぞと呼吸を合わせた気勢《けはい》、ぐいと引く、糸が張った。
 滝太郎は早速に押当てていた唇を指から放すと、薄月《うすづき》にきらりとしたのは、前《さき》に勇美子に望まれて、断乎として辞し去った指環である。と見ると糸はぷつりと切れて、足も、膝も遮るものなく、滝太郎の身は前へ出て、見返りもしないで衝《つ》と通った。
 そのまま総曲輪へ出ようとする時、背後《うしろ》ではわッといって、我がちに遁《に》げ出す跫音《あしおと》。
 蜘蛛の子は、糸を切られて、驚いて散々《ちりぢり》なり。
「貰ったよ。」
 滝太郎は左右を※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまわ》し、今度は憚《はばか》らず、袂から出して、掌《たなそこ》に据えたのは、薔薇《ばら》の薫《かおり》の蝦茶《えびちゃ》のリボン、勇美子が下髪《さげがみ》を留めていたその飾である。

       十

 土地の口碑《こうひ》、伝うる処に因れば、総曲輪のかの榎《えのき》は、稗史《はいし》が語る、佐々成政《さっさなりまさ》がその愛妾《あいしょう》、早百合を枝に懸けて惨殺した、三百年の老樹《おいき》の由。
 髪を掴《つか》んで釣《つる》し下げた女の顔の形をした、ぶらり[#「ぶらり」に傍点]火というのが、今も小雨の降る夜が更けると、樹の股《また》に懸《かか》るというから、縁起を祝う夜商人《よあきんど》は忌み憚《はばか》って、ここへ露店を出しても、榎の下は四方を丸く明けて避ける習慣《ならわし》。
 片側の商店《あきないみせ》の、夥《おびただ》しい、瓦斯《がす》、洋燈《ランプ》の灯と、露店のかんてらが薄くちらちらと黄昏《たそがれ》の光を放って、水打った跡を、浴衣着、団扇《うちわ》を手にした、手拭を提げた漫歩《そぞろあるき》の人通、行交《ゆきちが》い、立換《たちかわ》って賑《にぎや》かな明《あかる》い中に、榎の梢《こずえ》は蓬々《ほうほう》としてもの寂しく、風が渡る根際に、何者かこれ店を拡げて、薄暗く控えた商人《あきんど》あり。
 ともすると、ここへ、痩枯《やせが》れた坊主の易者が出るが、その者は、何となく、幽霊を済度しそうな、怪しい、そして頼母《たのも》しい、呪文を唱える、堅固な行者のような風采《ふうさい》を持ってるから、衆《ひと》の忌む処、かえって、底の見えない、霊験ある趣を添えて、誰もその易者が榎の下に居るのを怪しまぬけれども、今夜のはそれではない。
 今灯を点《つ》けたばかり、油煙も揚らず、かんてらの火も新しい、店の茣蓙《ござ》の端に、汚れた風呂敷を敷いて坐り込んで、物|馴《な》れた軽口で、
「召しませぬか、さあさあ、これは阿蘭陀《オランダ》トッピイ産の銀流し、何方《どなた》もお煙管《きせる》なり、お簪《かんざし》なり、真鍮《しんちゅう》、銅《あかがね》、お試しなさい。鍍金《めっき》、ガラハギをなさいましても、鍍金、ガラハギは、鍍金ガラハギ、やっぱり鍍金、ガラハギは、ガラハギ。」
 と尻ッ刎《ぱね》の上調子で言って、ほほと笑った。鉄漿《かね》を含んだ唇赤く、細面で鼻筋通った、引緊《ひきしま》った顔立の中年増《ちゅうどしま》。年紀《とし》は二十八九、三十でもあろう、白地の手拭《てぬぐい》を姉《あね》さん被《かぶり》にしたのに額は隠れて、あるのか、無いのか、これで眉が見えたらたちまち五ツばかりは若やぎそうな目につく器量。垢抜《あかぬけ》して色の浅黒いのが、絞《しぼり》の浴衣の、糊《のり》の落ちた、しっとりと露に湿ったのを懊悩《うるさ》げに纏《まと》って、衣紋《えもん》も緩《くつろ》げ、左の手を二の腕の見ゆるまで蓮葉《はすは》に捲《まく》ったのを膝に置いて、それもこの売物の広告か、手に持ったのは銀の斜子打《ななこうち》の女煙管である。
 氷店《こおりみせ》の白粉首《しろくび》にも、桜木町の赤襟にもこれほどの美なるはあらじ、ついぞ見懸けたことのない、
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