》に踏伸ばして、片膝を立てて頤《おとがい》を支えた。
「また、そんなことを有仰《おっしゃ》らないでさ。」
「勝手でございますよ。」
「それではまあお帽子でもお取り遊ばしましな、ね、若様。」
 黙っている。心易立《こころやすだ》てに小間使はわざとらしく、
「若様、もし。」
「堪忍しねえ、※[#「火+玄」、第3水準1−87−39]《まぶし》いやな。」
 滝太郎はさも面倒そうに言い棄てて、再び取合わないといった容子を見せたが、俯向《うつむ》いて、足に近い飛石の辺《ほとり》を屹《きっ》と見た。渠《かれ》は※[#「火+玄」、第3水準1−87−39]いといって小間使に謝したけれども、今瞳を据えた、パナマの夏帽の陰なる一双の眼《まなこ》は、極めて冷静なものである。小間使は詮方《せんかた》なげに、向直って、
「お嬢様、お茶を入れて参りましょう。」
 勇美子は余念なく滝太郎の贈物を視《なが》めていた。
「珈琲《コオヒイ》にいたしましょうか。」
「ああ、」
「ラムネを取りに遣わしましょうか。」
「ああ、」とばかりで、これも一向に取合わないので、小間使は誠に張合がなく、
「それでは、」といって我ながら訳も解らず、あやふやに立とうとする。
「道、」
「はい。」
「冷水《おひや》が可いぜ、汲立《くみたて》のやつを持って来てくんねえ、後生だ。」
 といいも終らず、滝太郎はつかつかと庭に出て、飛石の上からいきなり地《つち》の上へ手を伸ばした、疾《はや》いこと! 掴《つかま》えたのは一疋の小さな蟻《あり》。
「おいらのせいじゃあないぞ、何だ、蟻のような奴が、譬《たとえ》にも謂《い》わあ、小さな体をして、動いてら。おう、堪忍しねえ、おいらのせいじゃあないぞ。」といいいい取って返して、縁側に俯向《うつむ》いて、勇美子が前髪を分けたのに、眉を隠して、瞳を件《くだん》の土産に寄せて、
「見ねえ。」
 勇美子は傍目《わきめ》も触《ふ》らないでいた。
 しばらくして滝太郎は大得意の色を表して、莞爾《にっこ》と微笑《ほほえ》み、
「ほら、ね、どうだい、だから難有《ありがと》うッて、そう言いねえな。」
「どこから。」といって勇美子は嬉しそうな、そして頭《つむり》を下げていたせいであろう、耳朶《みみもと》に少し汗が染《にじ》んで、※[#「目+匡」、第3水準1−88−81]《まぶち》の染まった顔を上げた。
「どこからです、」
「え、」と滝太郎は言淀《いいよど》んで、面《かお》の色が動いたが、やがて事も無げに、
「何、そりゃ、ちゃんと心得てら。でも、あの余計にゃあ無いもんだ。こいつあね、蠅じゃあ大きくって、駄目なの、小さな奴なら蜘蛛《くも》の子位は殺《やッ》つけるだろう。こら、恐《こわ》いなあ、まあ。」
 心なく見たらば、群がった苔の中で気は着くまい。ほとんど土の色と紛《まが》う位、薄樺色《うすかばいろ》で、見ると、柔かそうに湿《しめり》を帯びた、小さな葉が累《かさな》り合って生えている。葉尖《はさき》にすくすくと針を持って、滑《なめら》かに開いていたのが、今蟻を取って上へ落すと、あたかも意識したように、静々と針を集めて、見る見る内に蟻を擒《とりこ》にしたのである。
 滝太郎は、見て、その験《げん》あるを今更に驚いた様子で、
「ね、特別に活きてるだろう。」

       五

「何でも崖《がけ》裏か、藪《やぶ》の陰といった日陰の、湿った処で見着けたのね?」
「そうだ、そうだ。」
 滝太郎は邪慳《じゃけん》に、無愛想にいって目も放さず見ていたが、
「ヤ、半分ばかり食べやがった。ほら、こいつあ溶けるんだ。」
「まあ、ここに葉のまわりの針の尖《さき》に、一ツずつ、小さな水玉のような露を持っててね。」
「うむ、水が懸《かか》って、溜《たま》っているんだあな、雨上りの後だから。」
「いいえ、」といいながら勇美子は立って、室《へや》を横ぎり、床柱に黒塗の手提の採集筒と一所にある白金巾《しろかなきん》の前懸《まえかけ》を取って、襟へあてて、ふわふわと胸膝を包んだ。その瀟洒《しょうしゃ》な風采《ふうさい》は、あたかも古武士が鎧《よろい》を取って投懸けたごとく、白拍子が舞衣《まいぎぬ》を絡《まと》うたごとく、自家の特色を発揮して余《あまり》あるものであった。
 勇美子は旧《もと》の座に直って、机の上から眼鏡《レンズ》を取って、件《くだん》の植物の上に翳《かざ》し、じっと見て、
「水じゃあないの、これはこの苔が持っている、そうね、まあ、あの蜘蛛が虫を捕える糸よ。蟻だの、蚋《ぶゆ》だの、留まると遁《の》がさない道具だわ。あなた名を知らないでしょう、これはね、モウセンゴケというんです、ちょいとこの上から御覧なさい。」と、眼鏡《レンズ》を差向けると、滝太郎は何をという仏頂面で、
「詰《つま》らねえ、そんなものより、おいらの目が確《たしか》だい。」といって傲然《ごうぜん》とした。
 しかり、名も形も性質も知らないで、湿地の苔の中に隠れ生えて、虫を捕獲するのを発見した。滝太郎がものを見る力は、また多とすべきものである。あらかじめ[#「あらかじめ」は底本では「あからじめ」]書籍《ほん》に就いて、その名を心得、その形を知って、且ついかなる処で得らるるかを学んでいるものにも、容易に求猟《あさ》られない奇品であることを思い出した勇美子は、滝太郎がこの苔に就いて、いまだかつて何等の知識もないことに考え到《いた》って、越中の国富山の一箇所で、しかも薄暗い処でなければ産しない、それだけ目に着きやすからぬ不思議な草を、不用意にして採集して来たことに思い及ぶと同時に、名は知るまいといって誇ったのを、にわかに恥じて、差翳《さしかざ》した高慢な虫眼鏡を引込めながら、行儀悪くほとんど匍匐《はらばい》になって、頬杖《ほおづえ》を突いている滝太郎の顔を瞻《みまも》って、心から、
「あなたの目は恐《こわ》いのね。」と極めて真面目《まじめ》にしみじみといった。
 勇美子は年紀《とし》も二ツばかり上である。去年父母に従うてこの地に来たが、富山より、むしろ東京に、東京よりむしろ外国に、多く年月を経た。父は前《さき》に仏蘭西《フランス》の公使館づきであったから、勇美子は母とともに巴里《パリイ》に住んで、九ツの時から八年有余、教育も先方《むこう》で受けた、その知識と経験とをもて、何等かこの貴公子に見所があったのであろう、滝太郎といえばかねてより。……

       六

「よく見着けて採って来てねえ、それでは私に下さるんですか、頂いておいても宜《よろ》しいの。」
「だから難有《ありがと》うッて言いねえてば、はじめから分ってら。」と滝太郎は有為顔《したりがお》で嬉しそう。
「いいえ、本当に結構でございます。」
 勇美子はこういって、猶予《ためら》って四辺《あたり》を見たが、手をその頬の辺《あたり》へ齎《もた》らして唇を指に触れて、嫣然《えんぜん》として微笑《ほほえ》むと斉《ひと》しく、指環《ゆびわ》を抜き取った。玉の透通って紅《あか》い、金色《こんじき》の燦《さん》たるのをつッと出して、
「千破矢さん、お礼をするわ。」
 頤杖《あごづえ》した縁側の目の前《さき》に、しかき贈物を置いて、別に意《こころ》にも留めない風で、滝太郎はモウセンゴケを載せた手巾《ハンケチ》の先を――ここに耳を引張《ひっぱ》るべき猟犬も居ないから――摘《つま》んでは引きながら、片足は沓脱《くつぬぎ》を踏まえたまま、左で足太鼓を打つ腕白さ。
「取っておいて下さいな。」
 まるで知らなかったのでもないかして、
「いりやしねえよ。さあ、とうとう蟻を食っちゃった、見ねえ、おい。」
 勇美子は引手繰《ひったぐ》られるように一膝出て、わずかに敷居に乗らないばかり。
「よう、おしまいなさいよ。」といったが、端《はした》なくも見えて、急《せ》き込む調子。
「欲《ほし》かアありませんぜ。」
「お厭《いや》。」
「それにゃ及ばないや。」
「それではお礼としないで、あの、こうしましょうか、御褒美。」と莞爾《にっこり》する。
「生意気を言っていら、」
 滝太郎は半ば身を起して腰をかけて言い棄てた。勇美子は返すべき言葉もなく、少年の顔を見るでもなく、モウセンゴケに並べてある贈物を見るでもなく、目の遣《や》り処に困った風情。年上の澄ました中《うち》にも、仇気《あどけ》なさが見えて愛々しい。顔を少し赤らめながら、
「ただ上げては失礼ね、千破矢さん、その指環。」
「え、」と思わず手を返した、滝太郎の指にも黄金《きん》の一条《ひとすじ》の環《わ》が嵌《はま》っている。
「取替ッこにしましょうか。」
「これをかい。」
「はあ、」
 勇美子は快活に思い切った物言いである。
 滝太郎は目を円《つぶら》にして、
「不可《いけね》え。こりゃ、」
「それでは、ただ下さいな。」
「うむ。」
「取替えるのがお厭なら。」
「止しねえ、お前《めえ》、お前さんの方がよッぽど可《い》いや、素晴しいんじゃないか。俺《おいら》のこの、」
 と斜《ななめ》に透かして、
「こりゃ、詰《つま》らない。取替えると損だから、悪いことは言わないぜ、はははは、」と笑ったが、努めて紛らそうとしたらしい。
 勇美子は燃ゆるがごとき唇を動かして、動かして、
「惜しいの、大事なんですか。」
「うむ、大事なんだ。」といい放って、縁を離れてそのまますッくと立った。
「帰《けえ》ったら何か持たして寄越《よこ》さあ、邸でも、庫《くら》でも欲しかあ上げよう、こいつあ、後生だから堪忍しねえ。」
 勇美子も慌《あわただ》しく立つ処へ、小間使は来て、廻縁の角へ優容《しとやか》に現れた。何にも知らないから、小腰を屈《かが》めて、
「お嬢様、例《いつぞ》の花売の娘が参っております。若様、もうお忘れ遊ばしたでしょう、冷水《おひや》は毒でございますよ。」

       七

 場末ではあるけれども、富山で賑《にぎや》かなのは総曲輪《そうがわ》という、大手先。城の外壕《そとぼり》が残った水溜《みずたまり》があって、片側町に小商賈《こあきゅうど》が軒を並べ、壕に沿っては昼夜交代に露店《ほしみせ》を出す。観世物《みせもの》小屋が、氷店《こおりみせ》に交《まじ》っていて、町外《まちはずれ》には芝居もある。
 ここに中空を凌《しの》いで榎《えのき》が一本、梢《こずえ》にははや三日月が白く斜《ななめ》に懸《かか》った。蝙蝠《こうもり》が黒く、見えては隠れる横町、総曲輪から裏の旅籠町《はたごまち》という大通《おおどおり》に通ずる小路を、ひとしきり急足《いそぎあし》の往来《ゆきき》があった後へ、もの淋《さみ》しそうな姿で歩行《ある》いて来たのは、大人しやかな学生風の、年配二十五六の男である。
 久留米の蚊飛白《かがすり》に兵児帯《へこおび》して、少し皺《しわ》になった紬《つむぎ》の黒の紋着《もんつき》を着て、紺足袋を穿《は》いた、鉄色の目立たぬ胸紐《むなひも》を律義に結んで、懐中物を入れているが、夕涼《ゆうすずみ》から出懸けたのであろう、帽は被《かぶ》らず、髪の短かいのが漆《うるし》のようで、色の美しく白い、細面の、背のすらりとしたのが、片手に帯を挟んで、俯向《うつむ》いた、紅絹《もみ》の切《きれ》で目を軽く押えながら、物思いをする風で、何か足許《あしもと》も覚束《おぼつか》ないよう。
 静かに歩を移して、もう少しで通《とおり》へ出ようとする、二|間《けん》幅の町の両側で、思いも懸けず、喚《わッ》! といって、動揺《どよ》めいた、四五人の小児《こども》が鯨波《とき》を揚げる。途端に足を取られた男は、横様にはたと地《つち》の上。
「あれ、」という声、旅籠町の角から、白い脚絆《きゃはん》、素足に草鞋穿《わらじばき》の裾《すそ》を端折《はしょ》った、中形の浴衣に繻子《しゅす》の帯の幅狭《はばぜま》なのを、引懸《ひっか》けに結んで、結んだ上へ、桃色の帯揚《おびあげ》をして、胸高に乳の下へしっかと〆《し》めた、これへ女扇をぐいと差して、膝の下の隠れるばかり、甲斐々々しく、水色|唐縮緬《と
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