えってつッけんどんに、
「生意気な講釈をするない、手前達《てめえッち》の知ったこッちゃあねえや、見殺しにされるもんか。しかし、おい、おいらも、まさかこれほどとは思わなかったが、随分手に余る上に、ものは食わずよ。どこへ出て可いか方角が分らねえし、弱った。活《い》きてる内ゃ助けてやらあ、不可《いけ》なかったら覚悟しねえ。おいら父様《おとっさん》はなし、母様《おっかさん》は失《な》くなったし、一人ぼッちで心細かったっけが、こんな時にゃあさっぱりだ、情《なさけ》なくも何ともねえが、汝《てめえ》は可哀そうだな。」といって、さすがの少年が目に暗涙を湛《たた》えて、膝下《しっか》に、うつぎの花に埋《うず》もれて蹲《うずくま》る清い膚《はだえ》と、美しい黒髪とが、わななくのを見た。この一雫《ひとしずく》が身に染みたら、荒鷲《あらわし》の嘴《はし》に貫かれぬお雪の五体も裂けるであろう。
一言の答《いら》えも出来ない風情。
少年も愁然《しゅうぜん》として無言で居たが、心すともなく極めて平気な調子で、
「しょうがねえやな、おい、そうしたら一所に死のうぜ。」と、自から頷《うなず》くがごとく顔を傾けていった。
理学士は夢中ながら、おのが命をもって与えんとして、三年《みとせ》の間朝夕室を同《おな》じゅうした自分の口からも、かほどまでに情の籠《こも》った、しかも無邪気な、罪のないことをいい得なかったことを思って、ひしと胸を打たるるがごとくに感じたのである。
我にもあらず、最後を取乱したお雪の耳にも、かかる言《ことば》は聞えたのであろう[#「あろう」は底本では「あらう」]。
「勿体のうございます。」と、神に謝するがごとくにいった。
「その意《つもり》で諦《あきら》めねえ。おい、そう泣くのは止せ、弱虫だと見ると馬鹿にするぜ、ももんがあ。」といって大空を。
「はい、もう泣きはいたしません。私が先へ覚悟をしておりましたものを、お可恥《はずか》しゅうございます。」と、手をついて面を上げた。そして顔と顔を見合せた時、少年はほとんど友白髪まで添遂げた夫婦《みょうと》のごとく、事もなげに冷い玉かと見えるお雪の肩に手を掛けて、
「助かったら何よ、おいらが邸《やしき》へ来ねえ、一所に楽をしようぜ、面白く暮そうな。」と、あたかも死を賭《かけもの》にしたこの難境は、将来のその楽《たのしみ》のために造られた階梯《かいてい》であるように考えるらしく、絶望した窮厄の中に縷々《るる》として一脈の霊光を認めたごとく、嬉しげに且つ快げにいって莞爾《かんじ》とした。いまわの際に少年は、刻下無意識になった恋人に対して、為《ため》に生命を致すその報酬を求めたのではない。繊弱小心の人の、知死|期《ご》の苦痛の幾分を慰めんとしたのである。
拓は夢に、我は棄てられるのであろうと思った、お雪は自分を見棄てるであろうと思った。少年がその時のその意気、その姿、その風情は、たとい淑徳貞操の現化《げんげ》した女神《にょしん》であっても、なお且つ、一糸|蔽《おお》える者なきその身を抱《いだ》かれて遮ぎり難く見えたから。
五十六
理学士はまた心から、十《とお》の我に百を加えても、なお遥《はる》かにその少年に及ばないことを認めたのである。
たとえば己《おの》が目は盲《し》いたるに、少年の眼《まなこ》は秋の水のごとく、清く澄んで星のごとく輝くのである。我はお雪の供給に活《い》きて、渠《かれ》をして石滝の死地に陥《おちい》らしめたのに、少年はその優しき姿と、斗大の胆をもって、渠を救うために目前荒鷲と戦っている。しかも事の行懸《ゆきがが》りから察し、人の語る処に因れば、この美少年は未見の知己、千破矢滝太郎に相違ない。千破矢は華族だ、今渠が来《きた》れ、共にこの労を慰めんといったのは、すなわちお雪を高家の室となさんという心である。されば少年がその意気と、その容貌《ようぼう》と、風采《ふうさい》と、その品位をもってして誰がこれを諾《うけが》わざるべき。拓が身をもってお雪と地位をかえたとすれば、直ちに我を棄てて渠に愛を移すのは、世に最も公平なことであると思って、満身の血が冷くなった。けれどもあえて数の多量なるものが、愛を購《あがな》い得るのではなかった。お雪は少年が優しく懸けた、肩の手を静かに払って、颯《さっ》と赤らむ顔とともに、声の下で、
「はい、私はあのお邸へ上ります訳には参りませんのでございます。」
恐る恐るいうおもはゆげな状《さま》を、少年は瞻《みまも》りながら、事もなげにいった。
「なぜだ。」
「内に拓さんという方がございます、花を欲しいと存じましたのも、皆《みんな》その人のためなんですから。」と死を極めたものの、かえってかかることを憚《はばか》らず言って差俯向《さしうつむ》く。
少年は屹《きっ》となって、たちまち顔色を変えたのである。
理学士はこの時少年のいうことを聞こうとして、思わず堅唾《かたず》を飲んだ。
夢中の美少年に憤った色が見え、
「おいら、島野とは違うぜ。今までな、おい、欲《ほし》い思ったものは取らねえこたあねえ、しようと思ったことをしねえこたあなかったんだ。可いじゃあないか、不可《いけ》ねえッて? 不可ねえか。うむそうか、可いや、へん、おいら詰《つま》らねえことをしたぜ。」
と投げるようにいって、大空を恍惚《うっと》りと瞶《みつ》めた風情。取留めのない夢の想《おもい》で、拓はこの時少年がお雪に向ってなす処は、一つ一《びと》つ皆思うことあって、したかのごとく感じられて、快活かくのごとき者が、恋には恐るべき神秘を守って、今までに秋毫《しゅうごう》も、さる気色のなかったほど、一層大いなる力あることを感じて、愕然《がくぜん》とした。同時に今までは、お雪を救うために造られた、巌《いわお》に倚《よ》る一個白面、朱唇、年少、美貌《びぼう》の神将であるごとく見えたのが、たちまち清く麗しき娘を迷わすために姿を変じた、妄執の蛇であると心着いたが、手も足も動かず、叫ばんとする声も己《おの》が耳には入《い》らなかった。
鷲がその三回目の襲撃を試みない瞬間、白い花も動かず、二人は熟《じっ》として石に化したもののように見えた。やがて少年は袂を探って、一本《ひともと》の花を取出した。学識ある理学士が夢中の目は、直ちにそれを黒百合の花と認めたのである。
これがためにこそ餓えたり、傷付いたれ、物怪《もののけ》ある山に迷うたれ。荒鷲には襲わるる、少年の身に添えて守っていたと覚ゆるのを、掴《つか》むがごとく引出《ひきいだ》して、やにわに手を懸けて※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]《むし》り棄てようとした趣であった。けれども、お雪が物いいたげに瞳を動かして、衝《つ》と胸を抱いて立ったのを、卑《いやし》むがごとく、嘲《あざ》けるがごとく、憎むがごとく、はた憐《あわれ》むがごとくに熟《じっ》と見て、舌打して、そのまま黒百合をお雪の手に与えると斉《ひと》しく、巌を放れてすっくと立って、
「不可《いけ》ねえや、お前《めえ》良人《ていし》があるんなら、おいら一所に死ぬのは厭だぜ。じゃあ、おい勝手にしねえ。」
といい棄てて、身を飜すとたちまち歩き去った。
五十七
我が手働かず、足動かず、目はただ天涯の一方に、白き花に埋《うず》もれたお雪を見るばかり。片手をもって抱き得るような、細い窶《やつ》れた妻の体を、理学士はいかんともすることならず。
お雪は黒百合の花を捧げて、身に影も添わず、淋しく心細げに彳《たたず》んでいたが、およそ十歩を隔てて少年が一度振返って見た時、糸をもて操らるるかと二足三足後を追うたが、そのまま素気《そっけ》なく向うを向いてしまったので、力無げに歩《あゆみ》を停《とど》めた、目には暗涙を湛《たた》えたり。
やがて後姿に触れて、ゆさゆさと揺《ゆす》ぶられる、のりうつぎ[#「のりうつぎ」に傍点]の花の梢《こずえ》は、少年を包んで見えなくなった。
これをこそは待ち得たれ、黒い星一ツ遥《はる》か彼方《かなた》の峰に現れたと見ると、風に乗って矢のごとくに颯《さっ》と寄せた。すわやと見る目の前の、鷲の翼は四辺《あたり》を暗くした中に、娘の白い膚《はだえ》を包んで、はたと仰向《あおむけ》に僵《たお》れた。
「あれえ、」
叫ぶに応じて少年は、再び猛然として顕《あらわ》れたが、宙を飛んで躍りかかった。拳《こぶし》を握って高く上げると、大鷲の翼を蹈《ふ》んで、その頸《うなじ》を打ったのである。
「畜生、おれが目に見えねえように殺せやい!」
と怒気満面に溢《あふ》れて叱咤《しった》した。少年はほとんど身を棄てて、その最後の力を尽したのであろう。
黒雲一団|渦《うずま》く中に、鷲は一双の金の瞳を怒《いか》らしたが、ぱっと音を立てて三たび虚空《こくう》に退いた。二ツ三ツ四ツ五ツばかり羽は斑々として落ちて、戦《たたかい》の矢を白い花の上に残した。
少年が勇威|凜々《りんりん》として今大鷲を搏《う》った時の風采は、理学士をして思わず面《おもて》を伏せて、僵《たお》れたる肉一団何かある、我が妻をもてこの神将に捧げんと思わしめたのである。
かくして少年ははた掌《たなそこ》を拍《う》って塵《ちり》を払ったが、吐息を吐《つ》いて、さすがに心|弛《ゆる》み、力落ちて、よろよろと僵れようとして、息も絶々《たえだえ》なお雪を見て、眉を顰《ひそ》めて、
「ちょッ、しようのねえ女だな。」
やがて手をかけて、小脇に抱上げたが、お雪の黒髪は逆《さかさま》に乱れて、片手に黒百合を持ったのを胸にあてて、片手をぶらりと垂れていた。大鷲は今の一撃に怒《いかり》をなしたか、以前のごとく形も見えぬまでは遠く去らず、中空に凧《いかのぼり》のごとく居《すわ》って、やや動き且つ動くのを、屹《きっ》と睨《にら》んでは仰いで見たが、衝《つ》と走っては打仰ぎ、走っては打仰ぎ、ともすれば咲き満ちたうつぎ[#「うつぎ」に傍点]の花の中に隠れ、顕れ、隠れ、顕れて、道を求めて駆けるのを、拓は追慕うともなく後を跟《つ》けて、ややあって一座の巌石、形|蟇《ひきがえる》の天窓《あたま》に似たのが前途《ゆくて》を塞《ふさ》いで、白い花は、あたかも雪間の飛々に次第に消えて、このあたりでは路とともに尽きて見えなくなる処に来た。
もとより後《うしろ》は見も返らず、少年はお雪を抱いたまま、ひだを蹈み、角に縋《すが》って蝙蝠《こうもり》の攀《よ》ずるがごとく、ひらりひらりと巌《いわお》の頂に上った。この巌の頂は、渠《かれ》を載せて且つ歩《あゆみ》を巡らさしむるに余《あまり》あるものである。
時に少年の姿は、高く頭上の風に鷲を漾《ただよ》わせ、天を頂いて突立《つった》ったが、何とかしけむ、足蹈《あしぶみ》をして、
「滝だ! 滝だ!」と言って喜びの色は面《おもて》に溢れた。ただ聞く、どうどうと水の音、巌もゆらぐ響《ひびき》である。
少年はいと忙《せわ》しく瞳を動かして、下りるべき路を求めたが、衝《つ》と端に臨んで、俯向《うつむ》いて見る見る失望の色を顕《あらわ》した。思わず嘆息をして口惜しそうに、
「どこまで祟《たた》るんだな、獣《けだもの》め。」
五十八
少年を載せた巌は枝に留まった梟《ふくろ》のようで、その天窓《あたま》大きく、尻ッこけになって幾千仭《いくせんじん》とも弁《わきま》えぬ谷の上へ、蔽《おお》い被《かぶ》さって斜《ななめ》に出ている。裾を蹈んで頭を叩けば、ただこの一座山のごとき大奇巌は月界に飛ばんず形。繁れる雑種の喬木《きょうぼく》は、梢《こずえ》を揃えて件《くだん》の巌《いわ》の裾を包んで、滝は音ばかり森の中に聞えるのであった。頂なる少年は、これを俯《ふ》し瞰《みおろ》して、雲の桟橋《かけはし》のなきに失望した。しかるに倒《さかさま》に伏して覗《のぞ》かぬ目には見えないであろう、尻ッこけになった巌《いわお》の裾に居て、可怪《あやし》い喬木の梢なる樹々の葉を褥《しとね》として、大胡坐《おお
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