たそうで。あれそれと小田原をやってる処へ、また竜川とかいう千破矢の家の家老が貴方、参ったんだそうで、御主人の安否は拙者がか何かで、昔取った杵柄《きねづか》だ、腕に覚えがありますから、こりゃ強うがす、覚悟をして石滝へ入ろうとすると、どうでございましょう。四五間しかないそうですが、泥水を装《も》って川へ一時に推出して来た、見る間に杭《くい》を浸して、早や橋板の上へちょろちょろと瀬が着く騒《さわぎ》。大変だという内に、水足が来て足を嘗《な》めたっていうんです。それがために皆《みんな》が一雪崩《ひとなだれ》に、引返《ひっかえ》したっていいますが、もっとも何だそうで、その前《さき》から風が出て大降になりました様子でござりますな。」
「ああ、その事は昨日《きのう》知事の内から、道とかいう女中が来て私にいった。ちょいちょい見舞ってくれるんだ、今日もつい前《さき》に帰ったから聞いているよ。」
「それからはまるで三日、富山中は真暗《まっくら》で、止《や》むかと思うと滝のように降出します。いや神通が切れた、郷屋敷|田圃《たんぼ》の堤防《つつみ》が崩れた、牛の淵《ふち》から桜木町へ突懸《つッかか》る、四十物町が少し引くかと思うと、総曲輪が湖《うみ》だという。それに、間を置いちゃあ大雨ですから市中は戦《いくさ》です。壁が壊《くず》れたり、材木が流れたりしますんですが、幸いまだ家が流れる程じゃあないので、ちょうど石滝の方は橋が出たという噂ですから、どうにか路は歩行《ある》かれましょう。お目に懸《かか》って、いよいと貴方でございます日にゃあ、こっちの嬢さんは御主人なり、一方にゃあ姉御がいった若様もいらっしゃる。どうでございましょう、この辺は水は大丈夫でございますか、もしそれが心配だと貴方ばかりではお目の御不自由、と打遣《うっちゃ》っちゃあ参られませんが。」
「慶造、六十年近くもここに居る荒物屋の婆さんがいうんだ、水には大丈夫だそうだから、私には構わんでも可い。」
 心安く言ったので、慶造は雀躍《こおどり》をして、
「それじゃあ後髪を引かれねえで、可うがす。お二人の先途を見届けて参りましょう。小主公《わかだんな》お気を着けなすって、後《のち》ともいわず直ぐに、」
 といった。折からの雨はまた篠《しの》を束《つか》ねて、暗々たる空の、殊に黄昏《たそがれ》を降静める。
 慶造は眉を濡らす雫《しずく》を払って、さし翳《かざ》した笠を投出すと斉《ひと》しく、七分三分に裳《もすそ》をぐい。
「してこいなと遣附《やッつ》けろ、や、本雨だ、威勢が可いぜえ。」

       五十三

 開戸から慶造が躍出したのを、拓は縁に出て送ったが、繁吹《しぶき》を浴びて身を退《ひ》いて座に戻った、渠《かれ》は茫然として手を束《つか》ぬるのみ。半《なかば》は自分の体のごときお雪はあらず、余《あまり》の大降に荒物屋の媼《ばば》も見舞わないから、戸を閉め得ず、燈《ともし》を点《つ》けることもしないで、渠はただ滝のなかに穴あるごとく、雨の音に紛れて物の音もせぬ真暗《まっくら》な家《や》の内に数時間を消した。夜《よ》も初更《しょこう》を過ぎつと覚しい時、わずかに一度やや膝を動かして、机の前に寄ったばかり。三日の内にもかばかり長い間降詰めたのは、この時ばかりであった。おどろおどろしい雨の中に、遠く山を隔てた隣国の都と思うあたり、馳違《はせちが》う人の跫音《あしおと》、ものの響《ひびき》、洪水の急を報ずる乱調の湿った太鼓、人の叫声《さけびごえ》などがひとしきりひとしきり聞えるのを、奈落の底で聞くような思いをしながら、理学士は恐しい夢を見た。
 こはいかに! 乾坤別有天《けんこんべつにてんあり》。いずこともなく、天|麗《うらら》かに晴れて、黄昏か、朝か、気|清《すず》しくして、仲秋のごとく澄渡った空に、日も月の形も見えない、たとえば深山《みやま》にして人跡《ひとあと》の絶えたる処と思うに、東西も分かず一筋およそ十四五町の間、雪のごとく、霞のごとく敷詰めた白い花。と見ると卯《う》の花のようで、よく山奥の溪間《たにあい》、流《ながれ》に添うて群《むれ》生ずる、のりうつぎ(サビタの一種)であることを認めた
 時にそよとの風もなく、花はただ静かに咲満ちて、真白《まっしろ》な中に、ここかしこ二ツ三ツ岩があった。その岩の辺りで、折々花が揺れて、さらさらと靡《なび》くのは、下を流るる水の瀬が絡まるのであろう、一鳥声せず。
 理学士は、それともなく石滝の奥ではないかと、ふと心着いて恍惚《うっとり》となる処へ、吹落す疾風《はやて》一陣。蒼空《あおぞら》の半《なかば》を蔽《おお》うた黒い鳥、片翼およそ一間余りもあろう[#「あろう」は底本では「あらう」]と思う鷲《わし》が、旋風《つむじ》を起して輪になって、ばッと落して、そのうつぎの花に翼を触れたと見ると、あッという人の叫声。途端に飜って舞上った時に、粉吹雪《こふぶき》のごとくむらむらと散って立つ花片《はなびら》の中から、すっくと顕《あらわ》れた一個の美少年があった。捲《まく》り手《で》の肱《ひじ》を曲げて手首から、垂々《たらたら》と血が流れる拳《こぶし》を握って、眦《まなじり》の切上った鋭い目にはッたと敵を睨《にら》んだが、打仰ぐ空次第に高く、鷲は早や光のない星のようになって消えた。
 少年は、熟《じっ》とその勁敵《けいてき》の逸し去ったのを見定めた様子であったが、そのまま滑《なめら》かな岩に背《せな》を支えて、仰向《あおむ》けに倒れて、力なげに手を垂れて、太《いた》く疲れているもののようである。
 やや有って、今少年が潜んでいた同じ花の下から密《そっ》と出たのはお雪であった。黒髪は乱れて頸《えり》に縺《もつ》れ頬に懸《かか》り、ふッくりした頬も肉《しし》落ちて、裾《すそ》も袂《たもと》もところどころ破れ裂けて、岩に縋《すが》り草を蹈《ふ》み、荊棘《いばら》の中を潜《くぐ》り潜った様子であるが、手を負うた少年の腕《かいな》に縋《すが》って、懐紙《ふところがみ》で疵《きず》を押えた、紅《くれない》はたちまちその幾枚かを通して染まったのである。
 お雪は見るも痛々しく、目も眩《く》れたる様《さま》して、おろおろ声で、
「痛みますか、痛みますか。」というのが判然《はっきり》聞える。
 眠れるか、少年はわずかにその頭《かしら》を掉《ふ》ったが、血は留《とま》らず、圧《おさ》えた懐紙は手にも耐《たま》らず染まったので、花の上に棄てた。一点紅、お雪は口を着けてその疵口《きずぐち》を吸ったのである。
 唇が触れた時、少年は清《すず》しい目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》って屹《きっ》と見たが、また閉じて身動きもせず、手は忘れたもののようにお雪がするままに任せていた。
 両人が姿を見ると、我にもあらず、理学士が肉《ししむら》は動いたのである。

       五十四

 しばらくするとお雪は帯の端を折返して、いつも締めている桃色の下〆《したじめ》を解いて、一尺ばかり曳出《ひきだ》すと、手を掛けた衣《きぬ》は音がして裂けたのである。
 その切《きれ》で疵《きず》を巻いて、放すと、少年はほとんど無意識のごとく手を曲げて胸に齎《もたら》して咽喉《のど》のあたりへ乗せたが、疲れてすやすやと睡《ねむ》った様子。顔のあたり、肩のあたり、はらはらと、来て、白く溜《たま》って、また入乱れて立つは、風に花片《はなびら》が散るのではない、前《さき》に大鷲がうつぎの森の静粛を破って以来、絶えず両人《ふたり》の身の辺《あたり》に飛交う、花の色と等しい、小さな、数知れぬ蝶々で。
 お雪は双の袂の真中《まんなか》を絞って持ち、留まれば美しい眉を顰《ひそ》める少年の顔の前を、絶えず払い退《の》け、払い退けする。その都度|死装束《しにしょうぞく》として身装《みなり》を繕ったろう、清い襦袢《じゅばん》の紅《くれない》の袂は、ちらちらと蝶の中に交って、間《ま》あれば、おのが肩を打ち、且つ胸のあたりを払っていたが、たちまち顔を顰《しか》めて唇を曲げた。二ツ三ツ体を捩《よ》ったが慌《あわただ》しい、我を忘れて肌を脱いだ、単衣《ひとえ》の背《せな》を溢《こぼ》れ出《い》づる、雪なす膚《はだえ》にも縺《もつ》るる紅《くれない》、その乳《ち》のあたりからも袂からも、むらむらとして飛んだのは、件《くだん》の白い蝶であった。
 我身|半《なかば》はその蝶に化《け》したるかと、お雪は呆れ顔をして身内を見たが、にわかに色を染めて密《そッ》と少年を見ると、目を開かず。
 お雪は吻《ほっ》と息を吐《つ》いて、肌を納めようとした手を動かすに遑《いとま》なく、きゃッといって平伏した。声に応じて少年はかッぱと刎《は》ね起きて押被《おっかぶ》さり、身をもってお雪を庇《かば》う。娘の体は再び花の中に埋《うず》もれたが、やや有って顕《あらわ》れた少年の背《せな》には、凄《すさま》じい鈎形《かぎがた》に曲った喙《くちばし》が触れた。大鷲は虚を伺って、とこうの隙《すき》なく蒼空から襲い来《きた》ったのであった。
 倒れながら屹《きっ》とその面《おもて》を上げると、翼で群蝶を掻乱《かきみだ》して、白い烟《けぶり》の立つ中で、鷲は颯《さっ》と舞い上るのを、血走った目に瞶《みつ》めながら少年は衝《つ》と立った。思わず胸に縋るお雪の手を取って扶《たす》けながら、行方を睨《にら》むと、谷を隔てて遥《はるか》に見えるのは、杉ともいわず、栃《とち》ともいわず、檜《ひのき》ともいわず、二抱《ふたかかえ》三抱《みかかえ》に余る大喬木《だいきょうぼく》がすくすく天をさして枝を交えた、矢来のごとき木間《このま》々々には切倒したと覚しき同じほどの材木が積重なって、横《よこた》わって、深森の中《うち》自《おのず》から径《こみち》を造るその上へ、一列になって、一ツ去れば、また一ツ、前なるが隠るれば、後なるが顕れて、ほとんど間断なく牛が歩いた。いずれも鼻頭《はなづら》におよそ三間|余《あまり》の長綱をつけて、姿形も森の中に定かならず、牛曳《うしひき》と見えるのが飛々に現れて、のッそり悠々として通っていたのであるが、今|件《くだん》の大鷲が、風を起して一翼に谷を越え、その峰ある処、件の森の中へあからさまに入ったと思うと、牛は宙に躍って跳狂《はねくる》うのが、一ツならず、二ツならず、咄嗟《とっさ》の間《かん》に眼《まなこ》を遮って七ツ数えると止《や》んだ。
「しっかりしねえ、もう可いぜ。」といって、少年は手を放した。
 お雪は血の気を失った顔を、恐る恐る上げて仰いだが、少年を見ると斉《ひと》しく身《み》を顫《ふる》わした。
「あらまたお背中を、ちょいと大変でございますよ。」
「可いッてことよ、こればかしが何だ。」といったが、あわれ身を支えかねたか、またどっさりと岩に腰を掛ける。
 お雪は失心の体《てい》で姿を繕うこともせず。両膝を折って少年の足許《あしもと》に跪《ひざまず》いて、
「この足手纏《あしてまとい》さえございませねば、貴方お一方はお助《たすか》り遊ばすのに訳はないのでございます。」
 と、いう声も身も顫えたのである。

       五十五

「私はどういたしましょう、花も取って頂きました上に、この山に入りましてから貴方ばかり酷《ひど》い目にお逢わせ申して、今までに、生命《いのち》をお取られ遊ばすかと思いましたことが幾たびあったでございましょう。体も疵《きず》に遊ばして庇《かば》って下さいますから、勿体ない、私は一ヶ所|擦剥《すりむ》きました処もございません。たとい前《さき》の世の約束事でも、これまでに御恩を受けますことはないのでございます。どうぞ私を打遣《うっちゃ》ってお逃げなすって下さいまし、お願《ねがい》でございます。貴方にこうして頂きますより殺されます方がどんなに心安いか分りません。失礼ながらお可哀そうで、片時もこんな恐《こわ》い処に貴方をお置き申したくはございませんから。」と、嗚咽《おえつ》していう声も絶断《たえだえ》。
 少年はか
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