あぐら》を組んだ、――何等のものぞ。
面赭《かおあか》く、耳|蒼《あお》く、馬ばかりなる大きさのもの、手足に汚れた薄樺色《うすかばいろ》の産毛のようで、房々として柔《やわら》かに長い毛が一面の生いて、人か獣《けだもの》かを見分かぬが、朦朧《もうろう》としてただ霧を束《つか》ねて鋳出《いだ》したよう。真俯向《まうつむき》になって面《おもて》を上げず、ものとも知らぬ濁《だ》みたる声で、
「猿の年の、猿の月の、猿の日に、猿の年の、猿の月の、猿の日に、猿の年の、猿の月の、猿の日に、」と支干《えと》を数えて呟《つぶや》きながら、八九寸伸びた蒼黒い十本の指の爪で、件《くだん》の細々とした、突けば折れるばかりの巌の裾をごしごしごしごしと掻※[#「てへん+劣」、第3水準1−84−77]《かきむし》る。時に手を留《とど》めてその俯向いた鼻先と思う処を、爪をあつめて巌の欠《かけ》を掘取ると見ると、また掻きはじめた。その爪の切入るごとに、巌はもろくぼろぼろと欠けて、喰い入り喰い入り、見る内に危《あやう》く一重の皮を残して、まさに断切《ちぎ》れて逆さまに飛ばんとする。
あれあれ、とばかりに学士は目も眩《く》れ、心も消え、体に悪熱《あくねつ》を感ずるばかり、血を絞って急を告げようとする声は糸より細うして己《おの》が耳にも定かならず。可恐《おそろ》しきものの巌を切る音は、肝先《きもさき》を貫いて、滝の響《ひびき》は耳を聾《ろう》するようであった。
羽撃《はばたき》聞えて、鷲は颯《さっ》と大空から落ちて来た。頂高く、天近く、仰げば遥かに小さな少年の立姿は、狂うがごとく位置を転じて、腕白く垂れたお雪の手が、空ざまに少年の頭《かしら》に縋ると見た。途端に巌は地を放れて山を覆えるがごとく、二人の姿はもんどり打って空に舞い、滝の音する森の中へ足を空に陥《おちい》ったので、あッと絶叫したが、理学士は愕然《がくぜん》として可恐《おそろし》い夢から覚めたのである。
拓は茫然自失して、前《さき》のまま机に頬杖を突いた、その手も支えかねて僵《たお》れようとしたが、ふと闇《やみ》のままうとうとと居眠ったのに、いつ点《つ》いたか、見えぬ目に燈《ともしび》が映えるのに心着いた。
確かに傍《かたわら》に人の気勢《けはい》。
五十九
「誰だ、」と極めて落着いて言ったが、声は我ながら異常なものであった。
急に答がないので、更に、
「誰だ。」
「はい、」と幽《かす》かに応《こた》えた。
理学士が一生にただ一度目を開いて見たいのは、この時の姿であった、今のは疑《うたがい》も無いお雪である。
これを聞いて渠《かれ》は思わず手を差延べて、抱《いだ》こうとしたが、触れば消失《きえう》せるであろうと思って、悚然《ぞっ》として膝に置いたが、打戦《うちわなな》く。
「遅くなりまして済みませんでした、拓さん。」
と判然《はっきり》、それも一言《ひとこと》ごとに切なく呼吸《いき》が切れる様子。ありしがごとき艱難《かんなん》の中《うち》から蘇生《よみがえ》って来た者だということが、ほぼ確かめらるると同時に、吃驚《びっくり》して、
「おお、お雪か、お前! そして千破矢さんはどうした、」と数分時前、夢に渠と我とともにあった少年の名をいった。
お雪はその時答えなかった。
理学士は繰返してまた、
「千破矢さんはどうしたんだ、」と、これは何心なく安否を聞いたのであったが、ふと夢の中の事に思い当った。お雪の答が濁ったのを、さてはとばかり、胸を跳《おど》らして口を噤《つぐ》む。
しばらくして、
「送って来て下さいましたよ。」
「そして※[#疑問符感嘆符、1−8−77]」
「あの、お向《むこう》の荒物屋に休んでいらっしゃいます。」
「そうか、」といったが、我ながら素気《そっけ》なく、その真心を謝するにも、怨《うらみ》をいうにも、喜ぶにも、激して容易《たやす》くは語《ことば》も出でず。あまりのことに、活きて再び家に帰って、現《うつつ》のごとき男を見ても直ぐにはものも言懸けなかった、お雪も同じ心であろう。ものいう目にも、見えぬ目にも、二人|斉《ひと》しく涙を湛《たた》えて、差俯向《さしうつむ》いて黙然とした。人はかかる時、世に我あることを忘るるのである。
框《かまち》に人の跫音《あしおと》がしたが、慌《あわただ》しく奥に来て、壮《さかん》な激しい声は、沈んで力強く、
「遁《に》げろ、遁げねえか、何をしとる!」
お雪は薄暗い燈《ともしび》の影に、濡れしおれた髪を振って、蒼白《あおじろ》い顔を上げた。理学士の耳にも正に滝太郎の声である、と思うも疾《と》しや!
「洪水《みず》だ、しっかりしろ。」
お雪は半ば膝を立てて、滝太郎の顔を見るばかり。
「早くしねえかい、べらぼうめ。」と叱るがごとくにいって、衝《つ》と縁側に出た、滝太郎はすっくと立った。しばらくして、あれといったが、お雪は蹶起《はねお》きようとして燈《ともし》を消した。
「周章《あわ》てるない、」といって滝太郎は衝《つ》と戻って、やにわにお雪の手を取った。
「助けてい!」と言いさまに、お雪は何を狼狽《うろた》えたか、扶《たす》けられた滝太郎の手を振放して、僵《たお》れかかって拓の袖を千切れよと曳《ひ》いた。
六十
お雪は曳いて、曳き動かして、
「どうしましょう、あれ、早く貴方《あなた》、貴方。」
拓は動じないで、磐石のごとく坐っているので、思わず手を放して、一人で縁側へ出たが、踏辷《ふみすべ》ったのか腰を突いた。しばらくは起きも得なかったが、むっくと立上ると柱に縋って、わなわなと顫《ふる》えた。ただ森《しん》として縁板が颯《さっ》と白くなったと思うと、水はひたひたと畳に上った。
「ええ、」といって学士も立った。
「可恐《おそろ》しい早さだ、放すな!」と滝太郎は背《せなか》をお雪に差向ける。途端に凄《すさま》じい音がして、わっという声が沈んで聞える。
「お雪! お雪。」
学士も我を忘れて助《たすけ》を呼んだのである。
「あれ、若様、拓さんは、拓さんは目が見えません。」
「うむ、」
「助けて下さい、拓さんは目が見えません。」
「二人じゃあ不可《いけ》ねえや、」
「内の人を、私の夫を。」
「おいら、お前でなくっちゃあ、」
「厭《いや》、厭ですよ、厭ですよ、」と、捕うる滝太郎の手を摺抜ける。
「だって、汝《おめえ》の良人《ていしゅ》なら、おいらにゃあ敵《かたき》だぜ。」
「私は死んでしまいます。」
「へへ、駄目だい、」と唾《つば》するがごとく叫んで、滝太郎は飛んで拓に来た。
「滝だ、大丈夫だ。」
「お雪には義理があるんです、私に構わず、」といって、学士は身を退《すさ》って壁にひたりと背《せな》をあてた。
「あれ、拓さん、」とばかり身を急《あせ》るお雪が膝は、早や水に包まれているのである。
「いや、いけない、」と学士は決然として言放った。
滝太郎は真中《まんなか》に立って、件《くだん》の鋭い目に左右を※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまわ》して瞳を輝かした。
「ええ二人ともつかまんな。構うこたあねえ、可《い》けなけりゃ皆《みんな》で死のう。」
雨は先刻《さっき》に止《や》んで、黒雲《くろくも》の絶間《たえま》に月が出ていた。湯の谷の屋根に処々《ところどころ》立てた高張の明《あかり》が射《さ》して、眼《ま》のあたりは赤く、四方へ黒い布を引いて漲《みなぎ》る水は、随処、亀甲形《きっこうがた》[#「亀甲形」は底本では「亀申形」]に畝《うね》り畝り波を立てて、ざぶりざぶりと山の裾へ打当てる音がした。拓を背にし、お雪を頸《うなじ》に縋らせて、滝太郎は面《おもて》も触《ふ》らず件《くだん》の洞穴《ほらあな》を差して渡ったが、縁を下りる時、破屋《あばらや》は左右に傾いた。行くことわずかにして、水は既に肩を浸した。手を放すなといって滝太郎が水を含んで吐いた時、お雪は洪水《みず》の上に乗上って、乗着いて、滝太郎に頬摺したが、
「拓さん堪忍して。」
声を残して、魚《うお》の跳《おど》るがごとく、身を飜《ひるがえ》して水に沈んだ。遥かにその姿の浮いた折から、荒物屋の媼《ばば》なんど、五七人乗った小舟を漕寄《こぎよ》せたが、流れて来る材木がくるりと廻って舷《ふなばた》を突いたので、船は波に乗って颯《さっ》と退《ひ》いた。同時に滝太郎の姿も水に沈んだが、たちまち水烟《みずけぶり》を立てて抜手を切ったのである。拓とともに助かったのは言うまでもない。
その夜《よ》湯の谷で溺《おぼ》れたのが十七人、……お雪はその中《うち》の一人であった。
水は一晩で大方|退《ひ》いて、翌日《あくるひ》は天日快晴。四十物町はちょろちょろ流れで、兵粮を積んだ船が往来《ゆきき》する。勇美子は裾を引上げて濁水に脛《はぎ》を浸しながら、物珍らしげに門の前を歩いていた。猟犬ジャムはその袖の下を、ちゃぶちゃぶと泳ぎ、義作は夕立の背《せな》を干して、傍《かたわら》に立っていた、水はやや駒の蹄《ひづめ》を没するばかり。それでも瀬を造って、低い処へ落ちる中に、流れて来たものがある、勇美子が目敏《めざと》く見て、腕捲《うでまく》りをして採上げたのは、不思議の花であった。形は貝母《ばいも》に似て、暗緑帯紫の色、一つは咲いて花弁《はなびら》が六つ、黄粉《こうふん》を包んだ蘂《しべ》が六つ、莟《つぼみ》が一つ。
数年の後《のち》、いずこにも籍を置かぬ一|艘《そう》の冒険船が、滝太郎を乗せて、拓お兼|等《ら》が乗組んで、大洋の波に浮《うか》んだ時は、必ずこの黒百合をもって船に号《なず》けるのであろう。
[#地から1字上げ]明治三十二(一八九九)年六〜八月
底本:「泉鏡花集成2」ちくま文庫、筑摩書房
1996(平成8)年4月24日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第四巻」岩波書店
1941(昭和16)年12月25日第1刷発行
※底本の誤植は親本を参照して直しました。
入力:もんむー
校正:門田裕志
2005年3月16日作成
2007年9月6日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全20ページ中20ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング