のお庇《かげ》なんで、へい。」
「ちょいとどうなすったの、滝太郎さんは。」と姫は四辺《あたり》を見て、御意遊ばす。
「お馬はあすこに居るじゃあないかね。」
「お嬢様、何ですか、その事でこちらへお越しなんですか。」
「何あのお雪のことなの。」
「姉さん、花売なんだがね、十八九でちょっとそういった風な女を見当りはしなかったかい。」
 お道に聞かれて米が答えようとするのを、ちゃっと引取ったのは今両人が鍵屋の女客に引付けられて、店から出るのに気を揉《も》んで、あとからついて出て立っている蔵屋の女《むすめ》。
「その人なら、存じております、今朝ほどでございました。」
「私だって知ってます。」と、米はつんとして倉を流※[#「目+分」、第3水準1−88−77]《じろり》。

       四十七

「貴方《あなた》の黒百合を採りたいって、とうとう石滝へ入ったそうです。」と、島野が引取って慎重にこれを伝える。
 勇美子はその瞳を屹《きっ》と凝らしたが、道は聞くと斉《ひと》しく、顔の色を変えた。
「お嬢様、どういたしましょう。」
「困ったね、少しお待ち、あの、お前だち誰も中の様子を知らないかい。」
「はい、ちっとも。」
「あの、少しも存じません。」
「それはもう誰も知ったものはござりますまい。」
 と車夫の一人。
「島野さん、義作さん、どうしたら可いでしょう。お嬢様が御褒美をお賭けなすったのを、旦那様がお聞遊ばすと、もっての外だ、間違いに怪我でもさせたらどうする、外《ほか》の内の者とは違うぞ、早く留めろと有仰《おっしゃ》るの。承わると実に御道理《ごもっとも》な事だから、早速あの娘にそういおうと思って、昨日《きのう》のことなんです、またこないだからふッとお邸には来ないもんですから、昨日《きのう》その金子《かね》は只《ただ》でお遣わしになることになって、それを持って私があそこへ、あの湯の谷の家《うち》へ行《ゆ》くと居ないんです。荒物屋から婆さんが私の姿を見ると、駆けて出て、取次いで、その花のことについて相談をされたのは私ばかり、はじめは滅相なと思ったが、情《こころ》を察すると無理はないので、泣《なき》の涙で合点しました。今日あたりはもう参ったかも知れませぬ、することが天道様の思召《おぼしめし》に叶《かな》ったら無事で帰って参りましょう。内に居る書生さんの旦那にはごく内々だから黙っておいて、とこういうことです。実はと訳をいって、お金子《かね》は預けておこうとすると、それは本人へ直《じか》にといって承知しません。無理もないと引返して、夜も寝ないで今朝、起きがけに行くともう居ないんです。また婆さんが出て、昨夜《ゆうべ》は帰りました、その事をいって聞かせると、なおのことそのお情《なさけ》に預《あずか》っては、きっと取って来て差上げずにはと、留めるのも肯《き》かないで行ったといいます。
 ええ、何の知事様から下さるものを、家一つ戴いて何程《どれほど》の事があろう、痩我慢《やせがまん》な行過ぎだと、小腹が立って帰りましたが、それといって棄てておかれぬ、直ぐにといってお嬢様が、ちょうどまたお加減が悪い処、かれこれして遅くなりましたけれども、お体のお厭《いと》いもなく遠方をお出懸けになったのに、まあ飛んだことをしちまったんでございますねえ。」
 と道は落着かず胡乱々々《うろうろ》する。
 一同顔を見合せた。
 義作一名にやりにやり
「可《よ》うがす、何、大概大丈夫でしょう、心配はありますまいぜ。諺《ことわざ》にも何でさ、案ずるより産むが易いって謂《い》いまさ。」
「何だね、お前さん。」とそこどころではない、道は窘《たしな》めるがごとくにいった。
 義作あえてその(にやり)なるものを止《や》めず。
「いえ、女ってえものは、またこれがその柔よく剛を制すといった形でね。喧嘩にも傍杖《そばづえ》をくいません、それが証拠にゃあ御覧《ごろう》じろ、人ごみの中でもそんなに足を蹈《ふみ》つけられはしねえもんだ。」
「ちょいとお黙り。高慢なことをお言いでない、お嬢様がいらっしゃるよ。」
「ですからさ、そっちにお嬢様がいらっしゃりゃ、こっちにゃあまた滝公、へん、滝の野郎てえ豪傑がついてまさ。」
「あれだもの。」
「どうでえ阿魔、一言もあるめえ恐入ったか。」
「義作さん可《いい》加減におしな。お嬢様は御心配を遊ばしていらっしゃるんですよ。」
「だから、その御心配には及びますめえッてこった。難かしい事《こた》あない、娘《あま》さい無事なら可いんでしょう。そこは心得てまさ、義作が心得たといっちゃあ、馬に引摺《ひきず》られたからとあって御信仰が薄いでしょうが、滝大明神が心得てついてます。今も島野さんに承わりゃ、あとからついて入んなすったそうで、何、またあの豪傑が行きさえすりゃ、」といいかけて、額を押え、
「や、天狗が礫《つぶて》を打ちゃあがる。」
 雨三粒降って、雲間に響く滝の音が乱れた。風一陣!

       四十八

「女中さん、降って来そうでございます、姫様《ひいさま》におっしゃって、まあ、お休みなさいましな」と米は程合《ほどあい》を見計らう。
「ああ、そういたしましょうねえ、お嬢様。」
 黙って敏活の気の溢《あふ》れた目に、大空を見ておわした姫様は、これに頷《うなず》いて御入《おんいり》があろうとする。道はもとより、馬丁《べっとう》義作続いて島野まで、長いものに巻かれた形で、一群《ひとむれ》になって。米は鍵屋あって以来の上客を得た上に、当の敵《あいて》の蔵屋の分二名まで取込んだ得意想うべく、わざと後を圧《おさ》えて、周章《あわ》てて胡乱々々《うろうろ》する蔵屋の女《むすめ》に、上下《うえした》四人をこれ見よがし。
「お懸けなさいまし、」と高らかに謂った。
 蔵屋の倉は堪《たま》りかねて、睨《ね》めながら米を摺抜《すりぬ》けて、島野に走り寄った。
「旦那様、若衆様《わかいしさん》とお二方は、どうぞ私《わたくし》どもへお帰りを願いとう存じます。」
「そうだ、忘れ物もあるし後で寄るよ。」
「はい、お忘物はこちらへ持って参りましても宜《よろ》しゅうございます。申兼ねますがどうぞいらっしゃって下さいまし、拝むんでございます、あの、後生になるのでございます。」
「可いじゃあないか、何も後《のち》にだってよ。」
 義作が仔細《しさい》を心得て、
「競争をしてるんでさ、評判なんで。おい、姉さん、御主人様がこちらへお褥《しとね》が据《すわ》るから、あきらめねえ、仕方がねえやな。いえさ、気の毒だ、私《わっし》あ察するがね、まあ堪忍しなさい。」
「それでもどうぞ姫様にお願い遊ばして。」
「何をいうんですよ、馬鹿におしなさいねえ。」
 と米は傍《かたわら》から押隔てると、敵手《あいて》はこれなり、倉は先《せん》を取られた上に、今のお懸けなさいましで赫《かッ》となっている処。
「止してくれ、人、身体《からだ》に手なんぞ懸けるのは、汚《けが》れますよ。」
「何を癩《かったい》が。」
「磔《はりつけ》め。」と角目立《つのめだ》ってあられもない、手先の突合《つつきあ》いが腕の掴合《つかみあ》いとなって、頬の引掻競《ひっかきくら》。やい、それと声を懸けるばかりで、車夫も、馬丁《べっとう》も、引張凧《ひっぱりだこ》になった艶福家《えんぷくか》島野氏も、女だから手も着けられない。
「留めておやり。道や、」
「ちょいと、串戯《じょうだん》じゃあないよ、お前様方《まえさんがた》はどうしたもんです。これお放し、あれさ、お放しというに、両方とも恐しい力だ。こっちはお嬢様がそれどころじゃあないのだのに、お前さんまでがお気を揉《も》ませ申すんだよ。可《いい》加減におし、あれさ、可いやね、そんなら私が素裸《まッぱだか》になって着物を地《つち》に敷いて、その上へ貴女《あなた》を休ませ申すまでも、お前達の世話にゃあならない、どちらへも休みはしないからそう思っておくれ。」とすっきりいった。両人《ふたり》は左右に分れたが、そのまま左右から、道の袖を捉《つか》まえて、ひしと縋《すが》って泣出したのである。道は弱って手を束《つか》ねてぼんやりとするのを見て、勇美子は早やばらばらと音のする雨も構わず、手を両人《ふたり》の背《せな》にかけて、蔵屋と、鍵屋と、路傍《みちばた》に二軒ならんだのに目を配って、熟《じっ》と見たまい、
「二人とも聞きな、可いことを教えてあげよう、しょッちゅうそんなことをしていては、どちらにも好《い》いことはないよ。こうおし、お前の処のお客は註文のあった食物をお前の処から持運ぶし、お前の処のお客はお前の店から持って行くことにして、そして一月がわりにするの。可いかい、怨《うら》みっこ無しに冥利《みょうり》の可い方が勝つんだよ。」
「おや、お嬢様、それでは客と食物を等分に、代り合っていたします。それでいてお茶代が別にあったり何かすると、どちらが何だか分らないで、怨《うらみ》はいつの間にか忘れてしまいましょう。なるほどその事《こっ》たよ。さあ、二人とも、手を拍《う》ったり。」
「やあ、占めろ。」といって、義作は景気よく手を拍った。女《むすめ》は両人《ふたり》、晴やかな勇美子の面《おもて》を拝んだ。
 折柄|荒増《あれまさ》る風に連れて、石滝の森から思いも懸けず、橋の上へ真黒《まっくろ》になって、転《こ》けつ、まろびつ、人礫《ひとつぶて》かと凄《すさま》じい、物の姿。

       四十九

 あれはと見る間に早や近々《ちかぢか》と人の形。橋の上を流るるごとく驀直《まっしぐら》に、蔵屋へ駆込むと斉《ひと》しく、床几《しょうぎ》の上へ響《ひびき》を打たせて、どたりと倒れたのは多磨太である。白墨狂士は何とかしけむ、そのままどたどたと足を挙げて、苦痛に堪えざる身悶《みもだえ》して、呻吟《うめ》く声|吠《ほ》ゆるがごとし。
 鍵屋の一群《ひとむれ》はこれを見て棄て置かれず、島野に義作がついて店前《みせさき》へ出向いて、と見ると、多磨太は半面べとり血になって、頬から咽喉《のど》へかけ、例の白薩摩《しろさつま》の襟を染めて韓紅《からくれない》。
「君、どうしたんです。」と島野は驚いたが、薄気味の悪さうに密《そっ》と手をとって、眉を顰《ひそ》めた。
 鍵屋では及腰《およびごし》に向うを伺い、振返って道が、
「あれ、怪我をしておりますようです、どうしたんでございましょう。」
 勇美子も夜会結びの鬢《びんずら》を吹かせ、雨に頬を打たせて厭《いと》わず、掛茶屋の葦簀《よしず》から半ば姿をあらわして、
「石滝から来たのじゃあなくって。滝さんとお雪はどうしたろうね、」とこれは心も心ならない。道はずッと出て手招《てまねぎ》をした。
「義作さん、おおい、ちょいとお出《いで》よ、お出よ。」
「へッ、」と云って、威勢よく飛んで帰る。
「何だね、どうしたのさ、あれ大変|呻吟《うめ》くじゃあないか。」
「え、雀部さんの多磨太なんで、から仕様が無《ね》えんです。何だそうで、全体|心懸《こころがけ》が悪うがすよ。ありゃね、しょッちゅう、あの花売を追懸《おっかけ》廻していたんで、今朝も、お前《めえ》、後を跟《つ》けて石滝へ入ったんだと。え何、力になろうの、助けてやろうという贅沢《ぜいたく》なんじゃあねえんでさ。お道どん、お前の前《まい》だけれどもう思い切ってるんだからね、人の入《へえ》らねえ処だし、お前、対手《あいて》はかよわいや。そこでもってからに、」といいかけて、ちょっと姫様《ひいさま》を見上げたので声を密《ひそ》めた。
「だね、それ、狼って奴だ。お前《めえ》、滝の処はやっぱり真暗《まっくら》だっさ。野郎とうとう、めんないちどりで、ふん捕《づかめ》えて、口説こうと、ええ、そうさ、長い奴を一本|引提《ひっさ》げて入《へえ》ったって。大刀《だんびら》を突着けの、物凄くなった背後《うしろ》から、襟首を取ってぐいと手繰つけたものがあったっさ。天狗だと思って切ってかかったが、お前、暗試合《やみじあい》で盲目《めくら》なぐりだ。その内、痛えという声がする、かすった
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