と思ったんだけれど、お前が居りゃあ世話はねえ。この馬返すからな、四十物町《あえものちょう》まで持って行ってくんねえ、頼むぜ、おい。」
呆れたものいいと、唐突《だしぬけ》の珍客に、茶屋の女どもは茫乎《ぼんやり》。
四十四
島野は、時というとこの苦手が顕《あらわ》れるのを、前世の因縁とでもいいたげな、弱り果てて、
「へい、その馬を持って帰れとおっしゃるんですか。」
と不平らしい顔をした。
「そうよ。」
「一体その何でございますが、私はどうも一向馬の方は心得ませんもんですから。」
「大丈夫だ。こう、お前《めえ》一ツ内端《うちわ》じゃあねえか、知己《ちかづき》だろう、暴れてくれるなって頼みねえ、どうもしやあしねえやな。そして乗られなかったら曳《ひ》いて行くさ。だからちったア馬に乗ることも心懸けておくこッた、女にかかり合っているばかりが芸じゃあねえぜ。どうだ、色男。」と高慢なことを罪もなくいって、滝太郎は微笑《ほほえ》んだ。
「失敬な。」も口の裡《うち》で、島野は顔を見らるると極《きまり》悪そうに四辺《あたり》をきょろきょろ。茶店の女《むすめ》は、目の前にほっかりと黒毛の駒《こま》が汗ばんで立ってるのを憚《はばか》って、密《そ》と洋盃《コップ》を齎《もた》らした。右手《めて》をのべて滝太郎が受ける時、駒は鬣《たてがみ》を颯《さっ》と振った。あれと吃驚《びっくり》して女《むすめ》は後《あと》へ。若君は轡《くつわ》を鳴らして、しっかと取りつつ、冷水の洋盃を長く差伸べて、盆に返し、
「沢山だ。おい、可いか、島野、預けるぜ。」
屹《きっ》と向直って、早く手綱を棄てようとする。島野は狼狽《うろた》えて両手を上げて、
「若様どうぞ、そりゃ平に、」とばかり、荒馬を一頭《ひとつ》背負《しょ》わされて、庄司重忠にあらざるよりは、誰かこれを驚かざるべき。見得も外聞も無しに恐れ入り、
「平に御容赦てッたような訳なんです。へい、全く不可《いけ》ません。それにちっと待合わせるものもあるんでございますから。」
と窮したる笑顔を造って、渠《かれ》はほとんど哀を乞う。
滝太郎は黙って頷《うなず》くと斉《ひと》しく、駒の鼻頭《はなづら》を引廻《ひきめぐ》らした。蹄《ひづめ》の上ること一尺、夕立は手綱を柳の樹に結えられて嘶《いなな》いた。
「島野、おい、島野。」
この声を聞くごとに、実《ほん》のこッた、紳士はぞッとする位で。
「へい、御用ですか。」
「お前、待合わせるものがあるッて、また別嬪《べっぴん》じゃあねえか、花売のよ。」
「御串戯《ごじょうだん》を、」と言ったが、内心|抉《えぐ》られたように、ぎっくりして、穏《おだやか》ならず。
滝太郎は戯《たわむれ》にいったばかり。そのまま茶屋の女《むすめ》を見返り、
「何ぞ食べるものをくれねえか、多い方が可いぜ。」
「姉さんおいしいものを、早く、冷たくして上げるが可い。」と、島野はてれ隠しに世辞をいった。
「はい、西瓜《すいか》でも切りましょうか。心太《ところてん》、真桑《まくわ》、何を召あがります。」
「そんな水ッぽいもんじゃあねえや、べらぼうめ、そこいらに在る、有平《あるへい》だの、餡麺麭《あんパン》だの、駄菓子で結構だ。懐へ捻込《ねじこ》んで行くんだから紙にでも包んでくんな。」と並べた箱の中に指《ゆびさ》しをする。
「どちらへいらっしゃいます。」
「石滝よ。」
驚いたのは茶店の女《むすめ》ばかりではない、島野も思わず顔を視《なが》める。
「兵粮《ひょうろう》だ、奥へ入《へえ》って黒百合を取って来ようというんだから、日が暮れようも分らねえ。ひもじくなるとそいつを噛《かじ》らあ、どうだ、お前、勇美さんに言いねえ、土産を持って行ってやるからッてよ。」
「途方もない、若様。それを取ろうッて、実はつい先刻《さっき》だそうです。あの花売の女《むすめ》も石滝へ入ったんです。」
「うむ、」といった滝太郎の顔の色は動いた。滝の響《ひびき》を曇天に伝えて聞える、小川の彼方《かなた》の森の方《かた》を、屹《きっ》と見て、すっくと立って、
「あの阿魔がかい、そいつあ危《あぶね》え!」
先立って二度あることは三度とやら、見通《みとおし》の法印だった、蔵屋の亭主は奥から慌《あわただ》しく顔を出して、
「そりゃこそ、また一人。」
四十五
「やあ、島野さん、千破矢の若様はどうしました。」
「義作じゃないか、一体ありゃあどうしたんだね。お前、魔物が夕立に乗って降って来たから、驚いたろうじゃあないか。」と半《なかば》は独言《ひとりごと》のようにぶつぶついう。
被《かぶ》った帽も振落したか、駆附けの呼吸《いき》もまだはずむ、お館《やかた》の馬丁義作、大童《おおわらわ》で汗を拭《ふ》き、
「どうしたって、あれでさ、お前様《まえさん》、私ゃ飛んでもねえどじを行《や》ったで。へい、今朝旦那様をお役所へ送ってね、それからでさ、獣《えて》を引張《ひっぱ》って総曲輪まで帰って来ると、何に驚いたんだか、評判の榎があるって朝っぱらから化けもしめえに、畜生|棹立《さおだち》になって、ヒイン、え、ヒインてんで。」
「暴れたかね。」
「あばれたにも何も、一体名代の代物《しろもの》でごぜえしょう、そいつがお前《め》さん、盲目《めくら》滅法界に飛出したんで、はっと思う途端に真俯向《まうつむけ》に転《のめ》ったでさ。」
「おやおや、道理で額を擦剥《すりむ》いてら。」
義作は掌《てのひら》でべたべたと顔を撫でて、
「串戯《じょうだん》じゃあがあせん、私《わっし》ゃ一期《いちご》で、ダーだと思ったね、地《つち》ん中へ顔を埋《うず》めてお前《め》さん、ずるずると引摺《ひきず》られたから、ぐらぐらと来て気が遠くなったんで。しばらくして突立《つった》って、わってッて追い駆けると、もうわいわいという騒ぎで、砂煙《すなけぶり》が立ってまさ。あれから旅籠町へ抜けて、東四十物町を突切《つっき》って、橋通りへ懸《かか》って神通を飛越そうてえ可恐《おそろし》い逸《そ》れ方だ。南無三宝《なむさんぽう》、こりゃ加州まで行くことかと息切がして蒼《あお》くなりましたね。鳥居前のお前さん、乱暴じゃあがあせんか、華族様だってえのにどうです、もっともまああの方にゃあ不思議じゃねえようなものの、空樽《あきだる》の腰掛だね、こちとらだって夏向は恐れまさ、あのそら一膳飯屋から、横っちょに駆出したのが若様なんです。え、滝先生、滝公、滝坊、へん滝豪傑、こっちの大明神なんで。」とぐっと乗り、拳を握って力を入れると、島野は横を向いて、
「ふむ。」
「どうです、威勢が可いじゃがあせんか。突然《いきなり》畜生の前へ突立《つった》ったから、ほい、蹴飛ばされるまでもねえ、前足が揃って天窓《あたま》の上を向うへ越すだろうと思うと、ひたりと留《とま》ったでさ。畜生、貧乏|動《ゆるぎ》をしやあがる腮《あご》の下へ、体を入れて透間がねえようにくッついて立つが早いか、ぽんと乗りの、しゃんしゃんさ。素人にゃあ出来やせん。義作、貸しねえ貸しねえてって例の我儘《わがまま》だから断りもされず、不断面倒臭くって困ったこともありましたっけが、先刻《さっき》は真《ほん》のこった、私《わっし》ゃ手を合わせました。どうしてお前《め》さんなんざ学者で先生だっていうけれど、からそんな時にゃあ腰を抜かすね。へい。何だって法律で馬にゃあ乗れませんや、どうでげす。」
「はい、お茶を一ツ。」
大|気焔《きえん》の馬丁は見たばかりで手にも取らず、
「おう、そんなもなあ、まだるッこしい。今に私《わっし》ゃそこに湧《わ》いてるのに口をつけて干しちまうから打棄《うっちゃ》っておきねえ。はははは、ええ島野さん。おいらこれから石滝へ行《ゆ》くから、お前《めえ》あとから取りに来ねえ、夕立はちょいと借りるぜって、そのまま乗出したもんだからね、そこいら中騒いでた徒《てええ》に相済みませんを百万だら並べたんで。転んだ奴あ随分あったそうだけれど、大した怪我人もなし、持主が旦那様なんですから故障をいう奴もねえんで、そっちゃ安心をして追駈《おいか》けて来ましたが、何は若様はどちらへ行ったんで。」
「じゃあ、その何だろう、馬騒ぎで血逆上《ちのぼせ》がしたんだろう、本気じゃあないな。兵粮だって餡麺麭《あんパン》を捻込《ねじこ》んで、石滝の奥へ、今の前《さき》橋を渡ったんだ、ちょうど一足違い位なもんだ。」
「やッ、」というて目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》る義作と一所に吃驚《びっくり》したのは、茶店の女で、向うの鍵屋の当の敵《かたき》、お米《よね》といって美しいのが、この折しも店先からはたはたと堤防《つつみ》へ駆出したことである。故こそあれ腕車が二台。
四十六
「もしもしちょいとどうぞ、どうぞちょいとお待ち遊ばして。」と路を遮ったので、威勢の可《い》い腕車《くるま》が二台ともばったり[#「ばったり」は底本では「ばつたり」]停《とま》る。米は顔を赤らめて手を膝に下げて、
「恐入ります、御免下さいまし。どちらの姫様《ひいさま》ですか存じませんが、どうぞあちらへいらっしゃいましたら、私《わたくし》どもへお休み遊ばして下さいまし、後生でございます。」
先に腕車《くるま》に乗ったのは、新しい紺飛白《こんがすり》に繻子《しゅす》の帯を締めて、銀杏返《いちょうがえし》に結った婦人《おんな》。
「何だね、お前さん。」
「はい、鍵屋と申します御休憩所《おやすみどころ》でございますが、よそと張合っておりますので。
今朝から向《むこう》にばかりお客がございます処へ、またお馬に召した立派な若様がお立寄でございました。あのお倉さんというのが、それはもうこれ見よがしで、私《わたくし》は居ても立ってもいられません。あんまり悔しゅうございますから、どんなにお叱り遊ばしても宜《よ》うございます、お見懸け申しましてお願い申します。助けると思召して後生でございます、私《わたくし》どもへ。」
とおろおろ声で泣くようにいう。
「おや、じゃああのお茶屋の姉さんかい。」
「はい、さようでございます。」
「それでは御馳走をしてくれますか、」と背後《うしろ》の腕車《くるま》で微笑みながらいったのは、米が姫様《ひいさま》と申上げた、顔立も風采《ふうさい》もそれに叶《かな》った気高いのが、思懸けず気軽である。
女はかえって答もなし得ず、俯向《うつむ》いてただお辞儀をした。
「それじゃ若衆《わかいしゅ》さん。」
「おう、鍵屋だぜ。」
「あい、遣《や》んねえ。」
車夫は呼交わしてそのまま曳出《ひきだ》す。米は前へ駆抜けて、初音《はつね》はこの時にこそ聞えたれ。横着《よこづけ》にした、楫棒《かじぼう》を越えて、前なるがまず下りると、石滝|界隈《かいわい》へ珍しい白芙蓉《はくふよう》の花一輪。微風にそよそよとして下立った、片辺《かたえ》に引添《ひっそ》い、米は前へ立ってすらすらと入るのを、蔵屋の床几《しょうぎ》に居た両人、島野と義作がこれを差覗《さしのぞ》いて、慌《あわただ》しくひょいと立って、体と体が縒《よ》れるように並んで、急足《いそぎあし》につかつかと出た。
「お嬢様。」
「へい、お道どん、御苦労だね。」
「おや、義作さん、ここに。」
勇美子は店さきに入ろうとしたが、不意に会った内の者を顧みて、
「島野さんも来ていたの。」
「ええ、僕は大分久しい前からなんです。義作君はたった今、その馬が放れました一件で。」
「実は何でございます、飛んだ疎匆《そそう》をいたしやして、へい。ねえ、お道どん、こういう訳なんだ、実は、」
「はあ、そりゃもう、路で聞きましたよ、飛んだことだったね、でもまあ可《い》い塩梅《あんばい》に。」
「御家来さん、危《あぶの》うがしたな。」
「しかし怪我アしなさらなくって何よりだったよ。」と車夫どもは口々なり。お道もまた、
「そうねえ。」
「ええ、もう私《わっし》ゃ怪我なんぞ厭《いと》やしませんが、何、皆《みんな》千破矢の若様
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