いろいろ》な四角いものだの、丸いものだの、削った爪の跡だの、朱だの、墨だので印がつけてあるだろう、どうだい、これを記念《かたみ》に置いて行こうか。」
四十一
折から白髪天窓《しらがあたま》に菅《すげ》の小笠《おがさ》、腰の曲ったのが、蚊細《かぼそ》い渋茶けた足に草鞋《わらじ》を穿《は》き、豊島茣蓙《としまござ》をくるくると巻いて斜《ななめ》に背負《しょ》い、竹の杖を両手に二本突いて、頤《おとがい》を突出して気ばかり前《さき》へ立つ、婆《ばばあ》の旅客が通った。七十にもなって、跣足《はだし》で西京の本願寺へ詣《もう》でるのが、この辺りの信者に多いので、これは飛騨《ひだ》の山中《やまなか》あたりから出て来たのが、富山に一泊して、朝がけに、これから加州を指して行《ゆ》くのである。
お兼は黙って遣過《やりす》ごして、再び欄干の爪の跡を教えた。
「これはね、皆《みんな》仲間の者が、道中の暗号《めじるし》だよ。中にゃあ今|真盛《まっさかり》な商売人のもあるが、ほらここにこの四角な印をつけてあるのが、私が行ってこれから逢おうという人だ、旧《もと》海軍に居た将官《たいしょう》だね。それからこうあっちに、畝々《うねうね》した線《すじ》が引張《ひっぱ》ってあるだろう、これはね、ここから飛騨の高山の方へ行ったんだよ。今は止《や》めていても兇状持《きょうじょうもち》で随分人相書の廻ってるのがあるから、迂濶《うかつ》な事が出来ないからさ。御覧よ、今本願寺|参《まいり》が一人通ったろう。たしかあれは十四五人ばかり一群《ひとむれ》なんだがね、その中でも二三人、体の暗い奴等が紛れ込んで富山から放れる筈《はず》だよ。倶利伽羅辺《くりからあたり》で一所になろう、どれ私もここへ、」
と言懸けて、お兼は、銀煙管《ぎんぎせる》を抜くと、逆に取って、欄干の木の目を割って、吸口の輪を横に並べて、三つ圧《お》した。そのまま筒に入れて帯に差し、呆れて見惚《みと》れている滝太郎を見て、莞爾《にこり》として、
「どうだい、こりゃ吃驚《びっくり》だろう。方々の、祠《ほこら》の扉だの、地蔵堂の羽目だの、路傍《みちばた》の傍示杭《ぼうじぐい》だの、気をつけて御覧な、皆《みんな》この印がつけてあるから。人の知らない、楽書の中にこの位なことが籠《こも》ってるから、不思議だわね。だから世の中は面白いものだよ。滝さん、お前さんの目つきと、その心なら、ここにある印は不残《のこらず》お前さんの手下になります、頼もしいじゃあないか。」
「うむ、」といって、重瞳《ちょうどう》異相の悪少は眠くないその左の目を擦《こす》った。
「加州は百万石の城下だからまた面白い事もあろう、素晴しい事が始まったら風の便《たより》にお聞きなさいよ。それじゃあ、あの随分ねえ。」
「気をつけて行きねえ。」
「あい、」
「………」
「おさらばだよ。」
その効々《かいがい》しい、きりりとして裾短《すそみじか》に、繻子《しゅす》の帯を引結んで、低下駄《ひくげた》を穿《は》いた、商売《あきない》ものの銀流を一包にして桐油合羽《とうゆがっぱ》を小さく畳んで掛けて、浅葱《あさぎ》の切《きれ》で胴中《どうなか》を結えた風呂敷包を手に提げて、片手に蝙蝠傘《こうもりがさ》を持った後姿。飄然《ひょうぜん》として橋を渡り去ったが、やがて中ほどでちょっと振返って、滝太郎を見返って、そのまま片褄《かたづま》を取って引上げた、白い太脛《ふくらはぎ》が見えると思うと、朝靄《あさもや》の中に見えなくなった。
やがて、夜が明け放れた時、お兼は新庄《しんじょ》の山の頂を越えた、その時は、裾を紮《から》げ、荷を担ぎ、蝙蝠傘をさして、木賃宿から出たらしい貧しげな旅の客。破毛布《やぶれげっと》を纏《まと》ったり、頬被《ほおかぶり》で顔を隠したり、中には汚れた洋服を着たのなどがあった、四五人と道連《みちづれ》になって、笑いさざめき興ずる体《てい》で、高岡を指して峠を下りたとのことである。
お兼が越えた新庄というのは、加州の方へ趣く道で、別にまた市中《まちなか》の北のはずれから、飛騨へ通ずる一筋の間道がある。すなわち石滝のある処で、旅客は岸|伝《づたい》に行《ゆ》くのであるが、ここを流るるのは神通の支流で、幅は十間に足りないけれども、わずかの雨にもたちまち暴溢《あふれ》て、しばしば堤防《どて》を崩す名代の荒河。橋の詰《つめ》には向い合って二軒、蔵屋、鍵《かぎ》屋と名ばかり厳《いかめ》しい、蛍狩、涼《すずみ》をあての出茶屋《でぢゃや》が二軒、十八になる同一年紀《おないどし》の評判娘が両方に居て、負けじと意気張って競争する、声も鶯《うぐいす》、時鳥《ほととぎす》。
「お休みなさいまし、お懸けなさいまし。」
四十二
その蔵屋という方の床几《しょうぎ》に、腰を懸けたのは島野紳士、ここに名物の吹上の水に対し、上衣《コオト》を取って涼を納《い》れながら、硝子盃《コップ》を手にして、
「ああ、涼しいが風が止《や》んだ、何だか曇って来たじゃあないか、雨はどうだろうな。」
客の人柄を見て招《まねき》の女、お倉という丸ぽちゃが、片襷《かただすき》で塗盆を手にして出ている。
「はい、大抵持ちましょうと存じます。それとも急にこうやって雲が出て参りましたから、ふとすると石滝でお荒れ遊ばすかも分りません。」
「何だね、石滝でお荒れというのは。」
「それはあの、少しでも滝から先へ足踏をする者がございますと、暴風雨《あらし》になるッて、昔から申しますのでございますが。」
島野は硝子盃を下に置いた。
「うむ、そして誰か入ったものがあるのかね。」
「今朝ほど、背負上《しょいあげ》を高くいたして、草鞋《わらじ》を穿《は》きましてね、花籃《はなかご》を担ぎました、容子《ようす》の佳《い》い、美しい姉さんが、あの小さなお扇子を手に持って、」と言懸《いいかか》ると、何と心得たものか、紳士は衣袋《かくし》の間から一本|平骨《ひらぼね》の扇子を抜出して、胸の辺りを、さやさや。
「はあ、それが入ったのか。」
「さようでございます。その姉さんは貴方《あなた》、こないだから、昼間参りましたり、晩方来ましたりいたしましては、この辺を胡乱々々《うろうろ》して、行ったり来たりしていたのでございますがね。今日は七日目でございます。まさかそんなことはと存じておりますと、今朝ほどここの前を通りましてね、滝の方へ行ったきり帰りません、きっと入りましたのでございましょう。」
「何かね、全くそんな不思議な処かね。」
「貴方、お疑り遊ばすと暴風雨《あらし》になりますよ。」といって、塗盆を片頬《かたほ》にあてて吻々《ほほ》と笑った、聞えた愛嬌者《あいきょうもの》である。島野は顔の皮を弛《ゆる》めて、眉をびりびり、目を細うしたのは謂《い》うまでもない。
「それは可《い》いが姉さん、心太《ところてん》を一ツ出しておくれな。」
「はい、はい。」
「待ちたまえ、いや、それともまた降られない内に帰るとするかね。」
「どういたしまして、降りませんでも、貴方|川留《かわどめ》でございますよ。」
方二坪ばかり杉葉の暗い中にむくむくと湧上《わきあが》る、清水に浸したのを突《つき》にかけてずッと押すと、心太《ところてん》の糸は白魚のごときその手に搦《から》んだ。皿に装《も》って、はいと来る。島野は口も着けず下に置いて、
「そうして何かい、ついぞまだそこへ行った者を見たことはないのか。」
「いいえ、私が生れましてから始めてでございますが、貴方どうでございましょう、つい少しばかり前にいらっしゃいました、太った乱暴な、書生さんが、何ですか、その姉さんがここへ参りましたことを御存じの様子で、どうだとお聞きなさいますから、それそれ申しますと、うむといったッきり駈出《かけだ》して、その方もまだお帰《かえり》になりません。」
「え、そりゃ何か、目の丸い、」
「はい、お色の黒い、いがぐり天窓《あたま》の。もうもう貴方のようじゃあございませんよ、おほほほ。」
「いや!」とばかりでこの紳士、何か早や、にたりとしたが、急に真面目になって、
「ちょッ、しようがないな。」
「貴方御存じの方なんですか。」
「うむ、何だよ、その娘の跡を跟《つ》けまわしてな、から厭《いや》がられ切ってる癖に、狂犬《やまいぬ》のような奴だ、来たかい! 弱ったな、どうも、汝《うぬ》一人で。」
「何でございます。」
「いえさ、連《つれ》は無かったのか。」
四十三
「ただお一人でございましたよ、豪《えら》そうなお方なんです。それに仕込杖《しこみづえ》なんぞ持っていらっしゃいましたから、私達がかれこれ申上げた処で、とてもお肯入《ききい》れはなさりますまいと、そう思いまして黙って見ておりましたが、無事にお帰りなされば可《よ》うございますがね。」
島野は冷然として、
「何、犬に食われて死にゃあ可いんだ。」
「だって、姉さんはお可哀そうじゃございませんか。」
「そりゃお互様よ。」
「あれ、お安くございませんのね。でも、あの、二度あることは三度とやら申しますから、今日の内また誰かお入りなさりはしまいかと言って、内の父様《おとっさん》も案じておりますから、貴方またその姉さんをお助けなさろうの何のッて、あすこへいらっしゃるのはお止し遊ばしまし。」
「だが、その滝の傍《そば》までは行っても差支《さしつかえ》が無いそうじゃないか。」
「そこまでなら偶《たま》に行く人もございますが、貴方何しろ真暗《まっくら》だそうですよ。もうそこへ参りました者でも、帰ると熱を煩って、七日も十日も寝る人があるのでございます。」
「熱はお前さんを見て帰ったって同一《おんなじ》だ、何暗いたッて日中《ひなか》よ、構やしない。きっとそこらにうろついているに違いない、ちょっと僕は。おい、姉さん帰りに寄ろう。」
「お気をお着け遊ばしていらっしゃいましよ。」
島野は多磨太が先《さきん》じたりと聞くより、胸の内安からず、あたふた床几《しょうぎ》を離れて立ったが、いざとなると、さて容易な処ではない。ほぼ一町もあるという、森の彼方《かなた》にどうどうと響く滝の音は、大河を倒《さかしま》に懸けたように聞えて、その毛穴はここに居る身にもぞッと立った。島野は逡巡して立っている。
折から堤防伝《つつみづた》いに蹄《ひづめ》の音、一人|砂烟《すなけぶり》を立てて、斜《ななめ》に小さく、空《くう》を駆けるかと見る見る近づき、懸茶屋《かけぢゃや》の彼方から歩を緩《ゆる》めて、悠然と打って来た。茶屋の際の葉柳の下枝《しずえ》を潜《くぐ》って、ぬっくりと黒く顕《あら》われたのは、鬣《たてがみ》から尾に至るまで六尺、長《たけ》の高きこと三尺、全身墨のごとくにして夜眼《やがん》一点の白《はく》あり、名を夕立といって知事の君が秘蔵の愛馬。島野は一目見て驚いて呆れた。しっくりと西洋|鞍《ぐら》置いたるに胸を張って跨《またが》ったのは、美髯《びぜん》広額の君ではなく、一個白面の美少年。頭髪柔かにやや乱れた額少しく汗ばんで、玉洗えるがごとき頬のあたりを、さらさらと払った葉柳の枝を、一掴み馬上に掻遣《かいや》り、片手に手綱を控えながら、一蹄《いってい》三歩、懸茶屋の前に来ると、件《くだん》の異彩ある目に逸疾《いちはや》く島野を見着けた。
「島野、」と呼懸けざま、飜然《ひらり》と下立《おりた》ったのは滝太郎である。
常にジャムを領するをもって、自家の光彩を発揮する紳士は、この名馬夕立に対して恐入らざるを得ないので、
「おや、千破矢様、どうして貴方、」と渋面を造って頭《かしら》を下げる。その時、駿足《しゅんそく》に流汗を被りながら、呼吸はあえて荒からぬ夕立の鼻面を取って、滝太郎は、自分も掌《てのひら》で額の髪を上げた。
「おい、姉や。」
「はい、」
「水を一杯、冷《つめた》いのを大急《おおいそぎ》だ。島野、可い処でお前《めえ》に逢ったい。おいら、お前ン処《とこ》の義作の来るまで、あすこの柳にでも繋《つな》いでおこう
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