い、憎まれものの殺生|好《ずき》はまた相応した力もあった。それはともかく、あの悪智慧のほどが可恐《おそろ》しい、行末が思い遣られると、見るもの聞くもの舌を巻いた。滝太郎がその挙動を、鋭い目で角の屑屋の物置みたような二階の格子窓に、世を憚《はばか》る監視中の顔をあてて、匍匐《はらばい》になって見ていた、窃盗《せっとう》、万引、詐偽《さぎ》もその時|二十《はたち》までに数《すう》を知らず、ちょうど先月までくらい込んでいた、巣鴨が十たび目だという凄《すご》い女、渾名《あだな》を白魚のお兼といって、日向《ひなた》では消えそうな華奢《きゃしゃ》姿。島田が黒いばかり、透通るような雪の肌の、骨も見え透いた美しいのに、可恐《おそろ》しい悪党。すべて滝太郎の立居|挙動《ふるまい》に心を留めて、人が爪弾《つまはじき》をするのを、独り遮って賞《ほ》めちぎっていたが、滝ちゃん滝ちゃんといって可愛がること一通《ひととおり》でなかった処。……
 滝太郎が、その後《のち》十一の秋、母親が歿《みまか》ると、双葉にして芟《か》らざればなどと、差配佐次兵衛、講釈に聞いて来たことをそのまま言出して、合長屋が協議の上、欠けた火鉢の灰までをお銭《あし》にして、それで出合《だしあい》の涙金を添えて持たせ、道で鳶《とび》にでも攫《さら》われたら、世の中が無事で好《い》い位な考えで、俵町から滝太郎を。
 一昨日《おととい》来るぜい、おさらばだいと、高慢な毒口を利いて、ふいと小さなものが威張って出る。見え隠れにあとを跟《つ》けて、その夜《よ》金竜山の奥山で、滝さん餞別《せんべつ》をしようと言って、お兼が無名指《べにさし》からすっと抜いて、滝太郎に与えたのが今も身を離さず、勇美子が顔を赤らめてまで迫ったのを、頑として肯《き》かなかった指環《ゆびわ》なのである。
 その時、奥山で餞《はなむけ》した時、時ならぬ深夜の人影を吠《ほ》える黒犬があった。滝さんちょいとつかまえて御覧とお兼がいうから、もとより俵町|界隈《かいわい》の犬は、声を聞いて逃げた程の悪戯《いたずら》小憎。御意は可しで、飛鳥のごとく、逃げるのを追懸《おッか》けて、引捕《ひッとら》え、手もなく頸《うなじ》の斑《ぶち》を掴《つか》んで、いつか継父が児《こ》を縊《くび》り殺した死骸《しがい》の紫色の頬が附着《くッつ》いていた処だといって今でも人は寄附かない、ロハ台の際まで引摺《ひきず》って来ると、お兼は心得て粋《いき》な浴衣に半纏を引《ひっ》かけた姿でちょいと屈《かが》み、掌《てのひら》で黒斑を撫《な》でた、指環が閃《ひらめ》いたと見ると、犬の耳が片一方、お兼の掌《てのひら》の上へ血だらけになって乗ったのである。人間でもわけなしだよ、と目前奇特を見せ、仕方を教え、針のごとく細く、しかも爪ほどの大《おおき》さの恐るべき鋭利な匕首《ナイフ》を仕懸けた、純金の指環を取って、これを滝太郎の手に置くと、かつて少年の喜ぶべき品、食物なり、何等のものを与えてもついぞ嬉しがった験《ためし》のない、一つはそれも長屋|中《うち》に憎まれる基《もとい》であった滝太郎が、さも嬉しげに見て、じっと瞶《みつ》めた、星のような一双の眼《まなこ》の異様な輝《かがやき》は、お兼が黒い目で睨《にら》んでおいた。滝太郎は生れながらにして賊性を亨《う》けたのである。諸君は渠《かれ》がモウセンゴケに見惚《みと》れた勇美子の黒髪から、その薔薇《ばら》の薫《かおり》のある蝦茶《えびちゃ》のリボン飾を掏取《すりと》って、総曲輪の横町の黄昏《たそがれ》に、これを掌中に弄《もてあそ》んだのを記憶せらるるであろう。

       三十二

「滝さん、滝さん、おい、おい。」
「私《わっち》かい、」と滝太歩を停《とど》めて振返ると、木蔭を径《こみち》へずッと出たのは、先刻《さっき》から様子を伺っていた婦人《おんな》である。透かして見るより懐しげに、
「おう来たのか、おいら約束の処へ行ってお前《めえ》の来るのを待ってたんだけれども、ちょいと係合《かかりあい》で歩《ぶ》に取られて出て来たんだ。路《みち》は一筋だから大丈夫だとは思ったが、逢い違わなければ可いと思っての。」
「そう、私実は先刻《さっき》からここに居たんだよ。路先を切って何か始まったから、田舎は田舎だけに古風なことをすると思ってね、旅稼《たびかせぎ》の積《つもり》でぐッとお安く真中《まんなか》へ入ってやろうかと思ってる処へ、お前さんがお出《いで》だから見ていたの。あい、おかしくッて可《よ》うござんした。ここいらじゃあ尾鰭《おひれ》を振って、肩肱《かたひじ》を怒《いか》らしそうな年上なのを二人まで、手もなく追帰《おッかえ》したなあ大出来だ、ちょいと煽《あお》いでやりたいわねえ、滝さんお手柄。」
「馬鹿なことを謂ってらあ、何
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