人《いいひと》が出来たそうだね、お目出度いことよ位なことを謂《い》われるばかりさ。」
「厭《いや》でございます。」
「厭だって仕方がない、何も情人が出来たのに御祝儀をいわれるたッて、弱ることはないじゃあないか。ふん、結構なことさね、ふん、」
と呼吸《いき》がはずむ。
「ほんとうでございますか。」
「まったくよ。」
「あら、それでは、あの私《わたくし》は御免|蒙《こうむ》りますよ。」
お雪は思切って立停《たちど》まった、短くさし込んだ胸の扇もきりりとする。
「御免蒙るッて、来ないつもりか。おい、お嬢様が御用があるッて、僕がわざわざ迎《むかい》に来たんだが、御免蒙る、ふん、それで可《い》いのか。――御免蒙る――」
「それでも、おなぶり遊ばすんですもの、私《わたくし》は辛うございます。」
「可いさ、来なけりゃ可いさ、そのかわり、お前、知事様のお邸とは縁切だよ。宜《よ》かろう、毎日の米の代といっても差支えない、大切なお花主《とくい》を無くする上に、この間から相談のある、黒百合の話も徒為《ふい》になりやしないかね。仏蘭西《フランス》の友達に贈るのならばって、奥様も張込んで、勇美さんの小遣にうんと足して、ものの百円ぐらいは出そうという、お前その金子《かね》は生命《いのち》がけでも欲《ほし》いのだろう、どうだね、やっぱり御免を蒙りまするかね。」といって、にやにやと笑いけり。
お雪は深い溜息《ためいき》して、
「困っちまいました、私はもうどうしたら可いのでございましょうねえ。」
詮方なげに見えて島野に縋《すが》るようにいった。お雪は止《や》むことを得ず、その懐に入って救われんとしたのであろう。
紳士は殊の外その意を得た趣で、
「まあ、一所に来たまえ。だから僕が悪いようにゃしないというんだ。え、どこかちょっと人目に着かない処で道寄をしようじゃあないか、そしていろいろ相談をするとしよう。またどんな旨《うま》い話があろうも知れない。ははは、まずまあ毎日汗みずくになって、お花は五厘なんていって歩かないでも暮しのつくこッた。それに何さ、兄さんとかいう人に存分療治をさせたい、金子《かね》も自《おのず》から欲《ほし》くなくなるといったような、ね、まあまあ心配をすることはないよ、来たまえ!」といって、さっさっと歩行《ある》き出す。お雪は驚いて、追縋るようにして、
「貴下、どちらへ参るんでございます。」
二十六
「心得てるさ、ちっとも気あつかいのいらないように万事取計らうから可いよ。向うが空屋《あきや》で両隣が畠《はたけ》でな、聾《つんぼ》の婆さんが一人で居るという家が一軒、……どうだね、」と物凄《ものすご》いことをいう。この紳士は権柄《けんぺい》ずくにおためごかしを兼ねて、且つ色男なんだから極めて計らいにくいのであります。
勇美子の用でも何でもない。大方こんなこととは様子にも悟っていたが、打着けに言われたので、お雪も今更ぎょっとした。
「路《みち》も遠うございますから、晩《おそ》くなりましょう、直ぐあの、お邸の方へ参っちゃあ不可《いけ》ませんか。」
「何、遠慮することはないさ。」
これだもの。…………
「いいえ、」といったばかり。お雪は遁帰《にげかえ》る機掛《きっかけ》もなし、声を立てる数《すう》でもなし、理窟をいう分《わけ》にも行《ゆ》かず、急にお腹《なか》が痛むでもない。手もつけられねば、ものも言われず。
径《こみち》ややその半《なかば》を過ぎて、総曲輪に近くなると、島野は莞爾《にこや》かに見返って、
「どうだ、御飯でも食べて、それからその家《うち》へ行くとしようか。」
お雪はものもいい得ない。背後《うしろ》から大きな声で、
「奢《おご》れ奢れ、やあ、棄置かれん。」と無遠慮に喚《わめ》いてぬいと出た、この野面《のづら》を誰とかする。白薩摩の汚れた単衣《ひとえ》、紺染の兵子帯《へこおび》、いが栗天窓《ぐりあたま》、団栗目《どんぐりめ》、ころころと肥えて丈の低きが、藁草履《わらぞうり》を穿《うが》ちたる、豈《あに》それ多磨太にあらざらんや。
島野は悪い処へ、という思入《おもいれ》あり。
「おや、どちらへ。」
「ははあ、貴公と美人とが趣く処へどこへなと行くで。奢れ! 大分ほッついたで、夕飯の腹も、ちょうど北山とやらじゃわい。」
「いいえさ、どこへ行くんです。」と島野は生真面目《きまじめ》になって押えようとする、と肩を揺《ゆす》って、
「知事が処じゃ。」
「今ッからね。」
「うむ、勇美子さんが来てくれいと言うものじゃでの。」
「へい、」と妙な顔をする。
多磨太、大得意。
「何《なん》よ、また道寄も遣らかすわい。向うが空屋で両隣は畠だ、聾の婆《ばばあ》が留守をしとる、ちっとも気遣《きづかい》はいらんのじゃ、万事|私《わし》が
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