方におなりなさいましても、貴方、」
「何だ。」
「見棄てちゃあ、私は厭《いや》。」
「こんなに世話になった上、まだ心配を懸けさせる、僕のようなものを、何だって、また、そういうことを言うんだろう。」
「ふ、」と泣くでもなし、笑うでもなし、極《きまり》悪げに、面を背けて、目が見えないのも忘れたらしい。
「お雪さん。」
「はい。」
「どうしてこんなになったろう、僕は自分に解らないよ。」
「私にも分りません。」
「なぜだろう、」
 莞爾《にっこり》して、
「なぜでしょうねえ。」
 表の戸をがたりと開けて、横柄に、澄して、
「おい、」

       二十三

 声を聞くとお雪は身を窘《すく》めて小さくなった。
「居るか、おい、暗いじゃないか。」
「唯今、」
「真暗《まっくら》だな。」
 例の洋杖《ステッキ》をこつこつ突いて、土間に突立《つった》ったのは島野紳士。今めかしくいうまでもない、富山の市《まち》で花を売る評判の娘に首っ丈であったのが、勇美姫おん目を懸けさせたまうので、毎日のように館《やかた》に来る、近々と顔を見る、口も利くというので、思《おもい》が可恐《おそろ》しくなると、この男、自分では業平《なりひら》なんだから耐《たま》らない。
 花屋の庭は美しかろう、散歩の時は寄ってみるよ、情郎《いろおとこ》は居ないか、その節邪魔にすると棄置かんよ、などと大《おお》上段に斬込《きりこ》んで、臆面《おくめん》もなく遊びに来て、最初は娘の謂うごとく、若山を兄だと思っていた。
 それ芸妓《げいしゃ》の兄《あに》さん、後家の後見、和尚の姪《めい》にて候ものは、油断がならぬと知っていたが、花売の娘だから、本当の兄もあるだろうと、この紳士大ぬかり。段々様子が解ってみると、瞋恚《しんい》が燃ゆるようなことになったので、不埒《ふらち》でも働かれたかのごとく憤り、この二三日は来るごとに、皮肉を言ったり、当擦《あてこす》ったり、つんと拗《す》ねてみたりしていたが、今夜の暗いのはまた格別、大変、吃驚《びっくり》、畜生、殺生なことであった。
 かつてまた、白墨狂士多磨太君の説もあるのだから、肉が動くばかりしばしも耐《たま》らず、洋杖《ステッキ》を握占めて、島野は、
「暗いじゃあないか、おい、おい。」とただ忙《あせ》る。
「はい、」と潤んだ含声の優しいのが聞えると、※[#「火+發」、276−15]《ぱッ》と摺附木《マッチ》を摺《す》る。小さな松火《たいまつ》は真暗《まっくら》な中に、火鉢の前に、壁の隅に、手拭の懸《かか》った下に、中腰で洋燈《ランプ》の火屋《ほや》を持ったお雪の姿を鮮麗《きれい》に照《てら》し出した。その名残《なごり》に奥の部屋の古びた油団《ゆとん》が冷々《ひやひや》と見えて、突抜けの縁の柱には、男の薄暗い形が顕《あら》われる。
 島野は睨《にら》み見て、洋杖《ステッキ》と共に真直《まっすぐ》に動かず突立《つった》つ。お雪は小洋燈に灯を移して、摺附木を火鉢の中へ棄てた手で鬢《びん》の後毛《おくれげ》を掻上《かいあ》げざま、向直ると、はや上框《あがりがまち》、そのまま忙《せわ》しく出迎えた。
 ちょいと手を支《つ》いて、
「まあ、どうも。」
「…………」島野は目の色も尋常《ただ》ならず、尖《とが》った鼻を横に向けて、ふんと呼吸《いき》をしたばかり。
「失礼、さあ、お上りなさいまし、取散らかしまして、汚穢《むそ》うございますが、」と極《きま》り悪げに四辺《あたり》を※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまわ》すのを、後《うしろ》の男に心を取られてするように悪推《わるずい》する、島野はますます憤って、口も利かず。
(無言なり。)
「お晩《おそ》うございましたのね。」と何やらつかぬことを言って、為方《しかた》なしにお雪は微笑《ほほえ》む。
「お邪魔をしましたな。」という声ぎっすりとして、車の輪の軋《きし》むがごとく、島野は決する処あって洋杖《ステッキ》を持換えた。
「お前ねえ、」
 邪気|自《おのず》から膚《はだえ》を襲うて、ただは済みそうにもない、物ありげに思い取られるので、お雪は薄気味悪く、易《やす》からぬ色をして、
「はい。」
「あのな、」と重々しく言い懸けて、じろじろと顔を見る。
「どうぞ、まあ、」
「入っちゃあおられん。」
「どちらへか。」
「なあに。」
「お急ぎでございますか。」と畳に着く手も定まらない。
「ちょっと出てもらおう、」
「え、え。」
「用があるんだ。」

       二十四

「後を頼むとって、お前様《めえさま》、どこさ行《ゆ》かっしゃる。」
 ちょいとどうぞと店前《みせさき》から声を懸けられたので、荒物屋の婆《ばば》は急いで蚊帳を捲《まく》って、店へ出て、一枚着物を着換えたお雪を見た。繻子《しゅす》の帯もきりりとして
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