、湿った手拭を入れておいたな、だらしのない、袂が濡れた。成る程|女房《おかみさん》には叱られそうなこッた。」
「あれ、あんなことをいっていらっしゃるよ。」と嬉しそうに莞爾《にっこり》したが、これで愁眉《しゅうび》が開けたと見える。
「御一所に帰りましょうか。」
「別々に行《ゆ》こうよ、ちっと穏《おだやか》でないから。いや、大丈夫だ。」
「気を着けて下さいましよ。」

       九

 男女《ふたり》が前後して総曲輪《そうがわ》へ出て、この町の角を横切って、往来《ゆきき》の早い人中に交《まじ》って見えなくなると、小児《こども》がまた四五人一団になって顕《あらわ》れたが、ばらばらと駈《か》けて来て、左右に分れて、旧《もと》のごとく軒下に蹲《しゃが》んで隠れた。
 月の色はやや青く、蜘蛛《くも》はその囲《い》を営むのに忙《せわ》しい。
 その時|旅籠町《はたごまち》の通《とおり》の方から、同じこの小路を抜けようとして、薄暗い中に入って来たのは、一|人《にん》の美少年。
 パナマの帽を前下り、目も隠れるほど深く俯向《うつむ》いたが、口笛を吹くでもなく、右の指の節を唇に当て、素肌に着た絹セルの単衣《ひとえ》の衣紋《えもん》を緩《くつろ》げ――弥蔵《やぞう》という奴――内懐に落した手に、何か持って一心に瞻《みつ》めながら、悠々と歩を移す。小間使が言った千破矢の若君という御容子《ごようす》はどこへやら、これならば、不可《いけね》えの、居やがるのと、いけぞんざいなことも言いそうな滝太郎。
「ふん。」
 片微笑《かたほえみ》をして、また懐の中を熟《じっ》と見て、
「おいらのせいじゃあないぞ。」と仇口《あだぐち》に呟《つぶや》いた。
「やあい、やい」
「盲目《めくら》やあい。」
 小児《こども》は一時《いちどき》に哄《どッ》と囃したが、滝太郎は俯向いたまま、突当ったようになって立停《たちどま》ったばかり、形も崩さず自若としていた。
 膝の辺りへ一条《ひとすじ》の糸が懸《かか》ったのを、一生懸命両方から引張《ひっぱ》って、
「雁が一羽懸った、」
「懸った、懸った、」と夢中になり、口々に騒ぎ立つのは、大方獲物が先刻《さっき》のごとく足を取られたと思ったろう。幼いものは、驚破《すわ》というと自分の目を先に塞《ふさ》ぐのであるから、敵の動静はよくも認めず、血迷ってただ燥《はしゃ》ぐ。
 左右を※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまわ》して、叱りもしない、滝太郎の涼しやかな目は極めて優しく、口許《くちもと》にも愛嬌《あいきょう》があって、柔和な、大人しやかな、気高い、可懐《なつか》しいものであったから、南無三《なむさん》仕損じたか、逃後《にげおく》れて間拍子を失った悪戯者《いたずらもの》。此奴《こいつ》羽搏《はばたき》をしない雁だ、と高を括《くく》って図々しや。
「ええ、そっちを引張んねえ。」
「下へ、下へ、」
「弛《ゆる》めて、潜《くぐ》らせやい。」
「巻付けろ。」
 遊軍に控えたのまで手を添えて、搦《から》め倒そうとする糸が乱れて、網の目のように、裾、袂、帯へ来て、懸っては脱《はず》れ、また纏《まと》うのを、身動きもしないで、彳《たたず》んで、目も放さず、面白そうに見ていたが、やや有って、狙《ねらい》を着けたのか、ここぞと呼吸を合わせた気勢《けはい》、ぐいと引く、糸が張った。
 滝太郎は早速に押当てていた唇を指から放すと、薄月《うすづき》にきらりとしたのは、前《さき》に勇美子に望まれて、断乎として辞し去った指環である。と見ると糸はぷつりと切れて、足も、膝も遮るものなく、滝太郎の身は前へ出て、見返りもしないで衝《つ》と通った。
 そのまま総曲輪へ出ようとする時、背後《うしろ》ではわッといって、我がちに遁《に》げ出す跫音《あしおと》。
 蜘蛛の子は、糸を切られて、驚いて散々《ちりぢり》なり。
「貰ったよ。」
 滝太郎は左右を※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまわ》し、今度は憚《はばか》らず、袂から出して、掌《たなそこ》に据えたのは、薔薇《ばら》の薫《かおり》の蝦茶《えびちゃ》のリボン、勇美子が下髪《さげがみ》を留めていたその飾である。

       十

 土地の口碑《こうひ》、伝うる処に因れば、総曲輪のかの榎《えのき》は、稗史《はいし》が語る、佐々成政《さっさなりまさ》がその愛妾《あいしょう》、早百合を枝に懸けて惨殺した、三百年の老樹《おいき》の由。
 髪を掴《つか》んで釣《つる》し下げた女の顔の形をした、ぶらり[#「ぶらり」に傍点]火というのが、今も小雨の降る夜が更けると、樹の股《また》に懸《かか》るというから、縁起を祝う夜商人《よあきんど》は忌み憚《はばか》って、ここへ露店を出しても、榎の下は四方を丸く明けて避ける習慣《な
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