人《いいひと》が出来たそうだね、お目出度いことよ位なことを謂《い》われるばかりさ。」
「厭《いや》でございます。」
「厭だって仕方がない、何も情人が出来たのに御祝儀をいわれるたッて、弱ることはないじゃあないか。ふん、結構なことさね、ふん、」
 と呼吸《いき》がはずむ。
「ほんとうでございますか。」
「まったくよ。」
「あら、それでは、あの私《わたくし》は御免|蒙《こうむ》りますよ。」
 お雪は思切って立停《たちど》まった、短くさし込んだ胸の扇もきりりとする。
「御免蒙るッて、来ないつもりか。おい、お嬢様が御用があるッて、僕がわざわざ迎《むかい》に来たんだが、御免蒙る、ふん、それで可《い》いのか。――御免蒙る――」
「それでも、おなぶり遊ばすんですもの、私《わたくし》は辛うございます。」
「可いさ、来なけりゃ可いさ、そのかわり、お前、知事様のお邸とは縁切だよ。宜《よ》かろう、毎日の米の代といっても差支えない、大切なお花主《とくい》を無くする上に、この間から相談のある、黒百合の話も徒為《ふい》になりやしないかね。仏蘭西《フランス》の友達に贈るのならばって、奥様も張込んで、勇美さんの小遣にうんと足して、ものの百円ぐらいは出そうという、お前その金子《かね》は生命《いのち》がけでも欲《ほし》いのだろう、どうだね、やっぱり御免を蒙りまするかね。」といって、にやにやと笑いけり。
 お雪は深い溜息《ためいき》して、
「困っちまいました、私はもうどうしたら可いのでございましょうねえ。」
 詮方なげに見えて島野に縋《すが》るようにいった。お雪は止《や》むことを得ず、その懐に入って救われんとしたのであろう。
 紳士は殊の外その意を得た趣で、
「まあ、一所に来たまえ。だから僕が悪いようにゃしないというんだ。え、どこかちょっと人目に着かない処で道寄をしようじゃあないか、そしていろいろ相談をするとしよう。またどんな旨《うま》い話があろうも知れない。ははは、まずまあ毎日汗みずくになって、お花は五厘なんていって歩かないでも暮しのつくこッた。それに何さ、兄さんとかいう人に存分療治をさせたい、金子《かね》も自《おのず》から欲《ほし》くなくなるといったような、ね、まあまあ心配をすることはないよ、来たまえ!」といって、さっさっと歩行《ある》き出す。お雪は驚いて、追縋るようにして、
「貴下、どちらへ参るんで
前へ 次へ
全100ページ中39ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング