願《ねがい》でござります、お雪が用は明日のことになされ下さりませ。内には目の不自由な人もござりますし、四十物町までは道も大分でござりますで。」
「何だ、お前は。」
「へい、」
「さあ、行こう。」
 お雪は黙って婆さんの顔を見たが、詮方《せんかた》なげで哀《あわれ》である。
「お前様、何といっても、」と空しく手を掉《ふ》って、伸上った、婆は縋着《すがりつ》いても放したくない。
「知事様のお使だ。」と島野が舌打して言った。
 これが代官様より可恐《おそろ》しく婆の耳には響いたので、目を※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》って押黙る。
 その時、花屋の奥で、凜《りん》として澄んで、うら悲しく、
[#ここから6字下げ]
雲横秦嶺家何在《くもはしんれいによこたわっていえいずくにかある》
雪擁藍関馬不前《ゆきはらんかんをようしてうますすまず》
[#ここで字下げ終わり]
 と、韓湘《かんしょう》が道術をもって牡丹花《ぼたんか》の中に金字で顕《あらわ》したという、一|聯《れん》の句を口吟《くちずさ》む若山の声が聞えて止《や》んだ。
 お雪はほろりとしたが、打仰いで、淋しげに笑って、
「どうぞ、ねえ。」

       二十五

 恩になる姫様《ひいさま》、勇美子が急な用というに悖《さから》い得ないで、島野に連出されたお雪は、屠所《としょ》の羊の歩《あゆみ》。
「どういう御用なんでございましょう。いつも御贔屓《ごひいき》になりますけれども、つい、お使なんぞ下さいましたことはございませんのに、何でしょうね、馴《な》れませんこッてすから、胸がどきどきして仕様がありません。」
 島野は澄まして冷《ひやや》かに、
「そうですか。」
「貴下《あなた》御存じじゃあないのですか。」
「知らないね。」と気取った代脉《だいみゃく》が病症をいわぬに斉《ひと》しい。
 わざと打解けて、底気味の悪い紳士の胸中を試みようとしたお雪は、取附《とりつく》島もなく悄《しお》れて黙った。
 二人は顔を背け合って、それから総曲輪へ出て、四十物町へ行こうとする、杉垣が挟《さしはさ》んで、樹が押被《おっかぶ》さった径《こみち》を四五間。
「兄さんに聞いたら可《よ》かろう。」島野は突然こう言って、ずッと寄って、肩を並べ、
「何もそんなに胸までどきつかせるには当らない、大した用でもなかろうよ。たかがお前この頃|情
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