、胸をしっかと下〆《したじめ》に女|扇子《おおぎ》を差し、余所行《よそゆき》の装《なり》、顔も丸顔で派手だけれども、気が済まぬか悄然《しょんぼり》しているのであった。
「お婆さん、私は直《じき》帰るんですが、」
「あい、」
「どうぞねえ、」と何やら心細そうで気に懸《かか》ると、老人《としより》の目も敏《さと》く、
「内方にゃ御病気なり、夜分、また、どうしてじゃ。総曲輪へ芝居にでも誘われさっせえたか。はての、」
 と目を遣《や》ると、片蔭に洋服の長い姿、貧乏町の埃《ほこり》が懸るといったように、四辺《あたり》を払って島野が彳《たたず》む。南無三《なむさん》悪い奴と婆さんは察したから、
「何にせい、夜分|出歩行《である》くのは、若い人に良くないてや、留守の気を着けるのが面倒なではないけれども、大概なら止《よし》にさっしゃるが可《よ》かろうに。」
 と目で知らせながら、さあらず言う。
「いえ、お召なんでございます。四十物町《あえものちょう》のお邸から、用があるッて、そう有仰《おっしゃ》るのでございますから。」
「四十物町のお花主《とくい》というと、何、知事様のお邸だッけや。」
「お嬢様が急に、御用がおあんなさいますッて。」
「うんや、善くないてや。お前様が行く気でも、私《わし》が留めます。お嬢様の御用とって、お前、医者じゃあなし、駕籠屋《かごや》じゃあなし、差迫った夜の用はありそうもない。大概の事は夜が明けてからする方が仕損じが無いものじゃ。若いものは、なおさら、女じゃでの、はて、月夜に歩いてさえ、美しい女の子は色が黒くなるという。」
「はい、ですけれども。」
「殊に闇《やみ》じゃ、狼が後《あと》を跟《つ》けるでの、たって止《や》めにさっせえよ。」と委細は飲込んだ上、そこらへ見当を付けたので、婆さんは聞えよがし。
 島野は耐えかねてずッと出て、老人《としより》には目も遣らず、
「さあ、」
「…………」黙って俯向《うつむ》く。
「おい、」とちと大きくいって、洋杖《ステッキ》でこと、こと、こと。
 お雪は覚悟をした顔を上げて、
「それじゃあお婆さん。」
「待たっせえ、いや、もし、お前様、もし、旦那様。」
 顧みもせず島野は、己《おれ》ほどのものが、へん、愚民にお言葉を遣わさりょうや!
 婆さんも躍気《やっき》になって、
「旦那様、もし。」
「おれか。」
「へい、婆《ばば》がお
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